被災地の発電機が盗まれた
台風で広範囲に停電が続く被災地で、信号機を動かすために設置された非常用発電機が相次いで盗まれている。
長く続く停電で消耗する被災地でせめてもの助けとなるであろう発電機が盗まれたというのは、信じがたい事件だ。
窃盗犯は、これぞ絵に描いたような火事場泥棒であり、大変に罪深いということは疑いようもない。
……のだが、このような火事場泥棒たちは果たして、本当にただの加害者なのだろうか。
今回の事件を機に、火事場泥棒が生まれる背景について考えてみたい。
いつも非常事態の人たち
火事場泥棒という言葉が示す火事場とは、言わずもがな火事のような突発的な事態が起きて、人々が混乱の渦に巻き込まれている状態のことである。
こんな非常事態に盗みを働くなんて、人の心があるのか――。多くの人はそう感じるに違いない。 実際、過去の判例を見ても、火事場泥棒は通常の窃盗より罪が重いと判断されていることが多い。
ただ、この「非常事態」という認定は誰が下したものだろう。
普段は平穏な日常を過ごしている私たちによるものだ。
「日常」に対する言葉が「非常」なのだから、当然と言えば当然だが。
火事場泥棒への憎しみを少しの間抑えて考えてみてほしいのは、日常が平穏でない人たちが、私たちと同じ社会にいるのではないかということ。
日ごろより社会から締め出されてきて、常に危機的状況で生き延びている人たち。彼らが苦難の果てに成り下がるのが、火事場泥棒という存在だと考えることができるのではないだろうか。
「血も涙もない」は苦境の裏返し
今日明日の生活にも困るような人たちが存在していることは知識として知っていても、私たちが直接目にすることはほとんどない。同じ地域に住んでいても違う世界を生きているのだから。
そのような普段は意識することのない恒常的な危機にある人たちとの接触が、私たち自身も災害という危機的状況に陥ったときに果たされたというだけのことなのだ。
――非常事態を狙って悪事を働く人間というのは、本人が慢性的な非常事態に置かれている。
――人の弱みにつけこむことのできる人間というのは、本人が誰よりも弱い存在である。
普段の生活に何の不自由もしていない人は、他人のピンチに遭遇したとしても、火事場泥棒にはならないのではないか。
火事場泥棒として世間の注目を浴びる彼らは単なる加害者ではなく、日常的に”火事場”を生きている被害者という側面もあるのかもしれない。
もちろん、だからといって罪が問われないというものではない。 しかし、世間から許されないことも承知の上で、背に腹は代えられないと追い詰められた末の行動が、世の犯罪なのだとしたら。
犯罪というものを見る目が少し変わってくるように思える。
悪に人はなぜ染まるのか
平成という時代は戦争もなく平和な時代だったと言われる一方で、社会の片隅には明日もわからぬ運命の人たちが潜んでいる。
そのような私たちにとって縁遠い世界を知る上で、先に発売された小説「Blue(ブルー)」(葉真中顕)をおすすめしたい。
法に照らせば極悪人でも、社会の輪からはずれた弱者の中ではヒーローということもありうる。
罪を重ね手を汚す彼らは社会の被害者であり、救済されるための選択肢に辿りつくことさえできない場所に追いやられているという実態がある。
福祉を必要とする人ほど、福祉から離れていってしまうという問題は最近、少しずつ取り沙汰されるようになってきた。
令和を迎えた今もこのようなケースはそこらに埋もれているはず。
誰かを表面だけ見て「自業自得」と断罪してしまう罪深さを思い知らされる。
「殺人鬼」「犯罪者」と括られてしまう彼らの本質はどこにあるのか。変わりゆく印象を味わいつつ、社会の全体像に思いを馳せてほしい。