社会に出てから考える「大学」は、20歳前後の日々を過ごした大学とは様相が違うように感じます。
次世代を担う大学の向かう先は、社会が向かう先に近いはず。でも大学って実績以外の内情が外から見えにくい。
今回収録が行われた広島には縁もゆかりもないけれど、”ある地域の大学”と捉えると、多くの人に共通する普遍的な話題といえそう。
1つの大学をモデルケースに「学ぶこと」を考えるきっかけになった番組、ミッツ・ケールちゃんなりの考察を書いてみます。
4/29(日)0:15~1:15 Eテレ
価値観の転換期にいる若者は、日本のどこに希望を見出すのか?
社会の枠組みが大きく変わる混迷の時代、新世代が社会における様々なジレンマを論じ合う。
目次
地方の国公立大学という立ち位置から考える「大学」
現代社会において、大学とは?
小学校や中学校、高校と比べ、様々な面で柔軟さ・自由さを持つ「大学」。教育機関でありながら、アカデミックな立場から社会への貢献も担っていますね。学校としての規模が大きい分、学びの可能性も無限。
社会の価値観が日々変わりゆく中で、大学はどこへ向かうべきか様々なジレンマを抱えています。
・研究機関? 教育機関?
・教養を深める? 専門を極める?
・理論? 実践?
・文系? 理系? 融合?
・グローバル化? ローカル化?
今回は、4月から新学部・新学科を開設するなど大学改変が進む広島大学が舞台。 学部1年生からOB、教員が集まり、これからの大学の向かう先を論じました。
大学に求めるものは、中身より条件?
番組ではまず、現役生になぜ広島大へ来たのかインタビュー。
学べる内容や設備を理由に挙げる学生にまじって、
・他の大学を志望したが届かず、レベルを少し落としたところにあったのが広島大。
・知り合いがいない、自分にとってルーツの無い土地にあるから広島大。
・地元広島では一番賢い人が行くから広島大。経済的事情で一人暮らしはできないから通学圏内で広島大。
などの、偏差値や地理的条件がきっかけになったという学生も。
積極的に選ぶというより消極的に絞るという感じになっているところからは、高校生や浪人生にとって大学の内情が縁遠いものであることがうかがい知れます。
ミッツ・ケールちゃん自身も10代で大学を決めたとき、「こういう視点でああいうことも含めながらこんなこと勉強できるから」なんて、人から聞かれたときに答える用の理由は用意していたけれど、それは、大学案内や人づての情報の受け売りに過ぎないものでした。正直、入ってからのことより入るための努力で精一杯だったこともあって。
でもそれで困るどころか、入学後も、オープンキャンパスなどで抱いた印象と、実際に在籍してからの感触は大きく違うことに気付き、「むしろ入学前のよくわかっていない段階からいろいろ印象を固めてしまわなくてよかったかも」なんて思ったぐらい。
「社会において大学とは何か」を考えることも大学の学びの1つだったのではないかと、自身の学生生活を経て、そして今回の番組を見て考えるようになりました。まぁミッツ・ケールちゃんはろくに勉強しないとても駄目な大学生でしたが。なので今ここで考えてみます。
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何をすべきか明言できないことが、大学の意義
大学で何を勉強できるか、したいか、すべきか。そういう観点で大学を語ろうとすると、とても難しいことに気が付きました。いつも以上にブログをうまく書けない、困った…。
でもこの、一言で帰属する意義を表現できないという点が、大学の大学たるところなのでは、と思い当りました。
高校までは普通科をはじめとするほとんどの学校で、教育指導要領に沿った学習内容をこなし、ひとまずの目指す先として受験という共通したものに向かいます。商業高校などでも同様で、簿記の習得などメジャーなゴールがあります。
殊に日本のような均質化された教育現場では、作られたコースをなぞって習得できるよう体系立てられたカリキュラムが用意されています。
次に、大学を出た後のことを考えてみます。多くの大学生が卒業後は会社に就職し、求められる仕事をこなし続ける日々を送ります。
ミッツ・ケールちゃんの大学での恩師は会社生活を経て教授となった経歴でしたが、民間と大学の意識の違いについて「会社では研究員であっても社の方針に沿った流れで仕事をし、間に自分の裁量が挟まるような感じ。大学での研究はどんな流れで何を仕事にするのかという大枠から自分の裁量が求められる」と話していました。
求められるものがはっきりしている分自由度は低い、”高校まで”と”会社生活”。それに比べて、大学4年間は興味のあることを自由に組み合わせて学ぶ期間です。学部学科特有の専門科目に限らずいろいろな分野の学びを取りに行けるという、高校までにはなかった大学の学びの自由さがあります。
自由に学びを取り入れる中で自分の物差しが出来上がっていき、それが学問の世界の中ではどこに位置づけられるのかを考えることで徐々に世の中に戻ってきて、自分のバックグラウンドに応じた一番活躍できる場所を目指して社会へ出ていく。
大学時代は人生におけるモラトリアム、とはよく言いますが、その言葉の本当に意味するところは、時間的な猶予だけではなく、社会から何がしかを求められることからの猶予なのではないでしょうか。
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レールが敷かれつつある大学
……のはずが、大学のモラトリアム性はどんどん薄くなっているように思えます。
その背景としてミッツ・ケールちゃんが考えるのは、学生自身が、不景気などの影響で卒業後の進路を踏まえた上で戦略的かつ保守的に大学生活を送るようになったこと。さらに、少子化で企業が学生を囲い込みたいために大学生にレールを敷いてしまうこと。この2点です。
つまり、「大学生とはこうあるべき」というモデルが形成されすぎていることが、大学の良さを減らしている。「大学は就職予備校じゃない」などという声は以前からよく耳にしますが、卒業後にある目的のための手段に成り下がっているのでしょう。
モデル化された大学生活で無難な方向に進むのでは、単なる時間的モラトリアムで終わってしまいます。それでも、会社に入るためにはまだまだ大卒ブランドが必要となる世の中。かつては意識の高い若者が集まった大学は、今では相対的に、意識が高くない若者が集まる場になりつつあります。番組の討論でも、科学を研究したくない子が理科の成績が良かったから入学するという問題点が挙げられていました。
大学進学前世代へのアンケートで「大学に行く必要がない」と答える人が増えてきているそう。インターネットを通じてたいていの専門知識にアクセスできるようになった時代、真に大きなことを成し遂げようとする人からすれば、みんなとおなじ色に染まるための大学はただの時間の浪費と考えられてしまうのかもしれませんね。
突き詰めた専門か、幅広い教養か
ここまで社会における自分探しという観点で大学を考えてきましたが、カリキュラムの自由度が高い大学や学部を前提に話を進めてきました。当てはまらない大学、学部もあります。 高校までの基礎知識をもとにさらに専門性を深めてエキスパートを養成する性質の強い大学、学部です。
大学の区分けで言うなら、理論派のユニバーシティ(総合大学)に対する実践派のカレッジ(主に単科大学)が該当します。
ユニバーシティでは学部横断の講義も含めて自分で組み合わせて受講することで教養を深められます。このアカデミックな理論を追求する”悠長”な学びが長所とすれば、
工業大学や商科大学などカレッジではより専門性に特化した学びを突き詰められるところが魅力。
(専門学校から移管された時代と比べれば両者の違いは必ずしも明確ではないけれど)
さらに、ユニバーシティの中でも、一般的に文系と理系では自由度に大きな違いがあります。
国家資格受験を見据えた医歯薬系はもちろん、理工系であっても1年次から必修科目が詰め込まれ、文系より自由度は低くなりがち。
さらにさらに視点を広げると、理論の中でもグローバル(国際的)な切り口を開いていくのか、ローカル(地域)に特化するのかという軸の違いも関わってきます。
社会の即戦力となる技術を身につけるのか、社会全体を包括的に捉える能力を育むのか。 大学の中身なんて入ってみないとわからないとは述べたものの、強いて言えばそんな観点で大学選びをすればよかったと今更思います。
対立するものをあわせるのが学問の最終形
一口に大学と言っても、いろんな要素で構成されているとわかりました。でも同時に、この分類はあくまで便宜上のものできっぱり分けられるものではないし、対立させることがそもそもおかしい、という指摘も出ました。
シンプルに興味あるものを見ようと思ったら文系理系言ってられないという意見は頷けます。文理の間に壁を打ち立てることは、研究のスピードアップにつながる一方でたどり着ける地点の可能性を狭めることになりかねません。ミッツ・ケールちゃんはそんなことを漠然と考えて高校までと大学で異なる文理系を無謀にも志したものの、両方中途半端に終わってしまったクチですが。
グローバルVSローカルを考えてみても線引きは難しいです。
環境問題は地球全体つながっていてグローバルだけど、汚染された大気は1か所の地域から排出されるからローカルな視点も必要になる。地域発の伝統産業が知名度を上げてグローバル化する。
……など、1か所のローカルな物事が普遍的な現象になるというのは、帰納法とか学問の基本かもしれませんね。「対立する概念をつないで行き来する能力こそが知性」という出演者の発言がありましたが、目の前で得られたデータから世の真理を追究するのが、学びの目指すところかなと思いました。
学びのオリジナリティ
とすれば、グローバル化が叫ばれる昨今ですが、目の前のものも疎かにできません。他の土地や人にはない個性的な体験は新たな切り口を生み出すヒントのようです。
広島は世界的に知られる「原爆を投下された歴史を持つ地域」です。広島大学では全学部で「平和学」が必修だそうで、広島大の学生という時点で、各々の専門を生かしていかに平和を実現するかというステータスが加わります。言うまでもなく、広島には原爆以外の要素もたくさんあります。でも「平和」というバックグラウンド加わることで、一つ個性を備えた科学者であったり哲学者であったりが輩出されるのでしょう。
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また、途中で指摘のあった日本人であったり日本語を話すということも強みになりうるというのはおもしろい視点でした。言語というのはたかがコミュニケーションツールですが、それぞれの地域固有の思想や常識が秘められていますよね。英語が国際的スタンダードの世界であえてマイナー言語で議論することは、余所では成しえないものに到達するチャンスかも。アクセスできる情報量が減ることは気を付けて、両立していきたいものです。
役に立たない学問
この学問が世の中の何に役立つのか。そんな議論が長い目で見れば損失を生んでいるかもしれません。文学部不要論が巻き起こったり、就職無理学部だなんて揶揄されたり。マスコミで取り上げられる科学ニュースは「実用化すれば現状のこういう課題解決に役立つ」という担保がされている分かりやすいものばかり。
でも「役に立つ」という判断は今現在の判断であり、知的好奇心を満たすだけのように思える分野が大化けする可能性だってあります。非効率的・非合理的なところにこそ見えない発見が隠れているかもしれません。
「中央にいれば流行の研究を追わざるを得ない中、地方にいるハンデがあったからこそ評価されない研究をひっそり続けることができて結果的に世の中に貢献した」というCG研究の開拓者の話は、合理的な方向に加速し続ける現代で、無視できないことのように思えます。
現況の大学は就職を見据えた合理的な学びの場になってしまっているけれど、学問の世界では臨機応変に世渡りすることが必ずしも正解とは言えません。ましてや、ネットワーク網が発達してバラバラだった情報をいとも簡単に抽出し、AIで関連付けられるようになった現代です。
限られた知識人が複数の技術を受け持ったダビンチの時代から、産業革命を皮切りに効率性を重視するフェーズに移行し、”文理カテゴライズ”という箱に一度は入った「学問」。外から見えない箱の内部で細分化してガラパゴス化を遂げ、再び外に出てきて融合したら新しい価値基準が生まれるかも。
インスタントに世に迎合することなく、個性的であること、結論を急がずゆっくり研究することを大切に我が道を行くことが、「大学」の盛り返す道筋なのではないでしょうか。役に立つかどうかに捉われず純粋に学問を追求する最後の砦であってほしいと願います。
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