ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★ハートネットTV「もうひとつの“性”教育プロジェクト」

LGBTでない人に聞いてみたいのですが、LGBT問題に興味ありますか? ミッツ・ケールちゃんは当事者でないのにも関わらず、なぜだか興味ひかれる自分を不思議に思っていました。
自分はLでもGでもBでもTでもないから関係ないのでは?
そんな人こそ価値観を問い直すきっかけになりそうな番組を見たので、内容と感想・考察を書いてみます。ミッツ・ケールちゃんはかねての疑問が氷解した気持ちです。

4/9(月)20:00~20:30 Eテレ

障害や病のある人、「生きづらさ」を抱えている人、支える家族や共感する人たち、
さらには社会を変えたいと願うすべての人たちの、”今” を知らせる福祉情報番組


目次

学校現場での性教育で足りないこと、それを補うプロジェクト

 性暴力や、LGBT当事者に対する差別。「性」を理由に悩む人が多く存在する一方、「性」に関する話題ってタブーとされがち。学校や家庭で孤立する若者を救うためには、「同性愛は異常、気持ち悪い」といった心無い声が飛び交う社会全体の意識改革が必要。
 というわけで、今までより幅広い「性教育」を学校現場で行うためにはどうすればいいか、ミーティングが行われました。

そもそも「性」ってなんだろう

 従来の性教育では、「卵子精子が出会って新しい命ができる」というテーマが主。でも、性って産むためだけのものじゃない。みんなそれぞれ違う、自分の体を持って生きていくための性教育を提唱したいということでした。
 若いころ自身が同性愛であることに悩んだ文筆家は「私が生きるために必要なはずだったことを教わりたかった」と話します。

 出だしから、性ってなんだろうと考えてしまう始まりですね。「性」を辞書でひいてみると、
   さが、せい、しょう
3通りの読みがでてきました。「せい」とは生殖に関連すること。でも「さが」「しょう」と読めば、もって生まれた「性質」「運命」についての言葉であるともとれますね。

 今回は、レズビアンの文筆家、元ひきこもりの現代美術家、体と心の性が一致しない娘を持つ母親、かつて性暴力被害を受けた漫画家、障害者スポーツ選手、などが集まりキックオフミーティング。一見すると「性」にどう関わるのかわからないメンバーも混ざっています。

「性」について考えるべき年齢は何歳から?

 今回のプロジェクトの発案者・レズビアンの文筆家が最初に指摘していたのは、性的な知識について、“まだ子供だから早い”と大人がごまかしてしまう現代の風潮。「子どもの体にも性は関わりあること、知る権利がある」と語ります。

 子ども当人にはまだ必要がない知識でも、幼い子を狙った性虐待に巻き込まれないためにも早いうちから教育が必要なのではという意見もありました。性についての知識がなかったばっかりに傷ついてしまった、ということにならないよう、自分で自分の身に何が起こっているかを知るための知識が必要だと。

 ミッツ・ケールちゃんが思ったのは、「幼いうちは必要ない性教育」と考えられている時点で、生殖・性行為に関する事柄しか含まれていないのでは?ということ。妊娠、出産なら確かに(性虐待防止を除けば)幼い子どもには不要ですよね。
 でも、もっと広く、性自認や性的思考、自分の属性をどう捉えるかについても、「性」に含まれるのなら、それこそ物心つくかつかないかの年頃にこそ考え始めるべきでしょう。「性」の定義が狭いままであることが、今の性教育における一番の改善点な気がします。

学校で教えない・教科書に載っていない、マイノリティの存在

 現況の保健体育では学習指導要領に、異性愛しか記述がありません。“思春期になったら異性に惹かれるようになる、それが自然”という前提になっています。「まぁ世の中には、こういう人もいるんですけどね」と同性愛をからかう仕草をする教員、教室中に広がる笑い。そんな日常に人知れず傷ついたと話す、性的マイノリティのメンバー。

 性教育に限らず、ミッツ・ケールちゃんが常々思うのは、教育とは全員に一方向を向かせ、既存の枠にはめる営みであることが非常に多いということ。そこには世の常識という多数派の論理、また、教える側の恣意が反映されているように思います。
 まぁ義務教育の保健体育で主に扱う体の発達や心の変化というのが、性的マジョリティのバージョンで終わってしまうのは時間の制約で仕方ないのかもしれません。本当は生徒どうしで意見交換しあうとかできればいいんでしょうけど。

※今春から、中学道徳の教科書の一部でLGBTの記載が入ったそうです

タブー視される「性」

 さらに、学習指導要領では、性交渉は基本的に扱わないものとされています。副教材で一歩踏み込む先生もいるが、どこまで教えていいか曖昧だといいます。これも、ギリギリでやっている感がありますね。

 メンバーから指摘があったのが、当事者としては、障害の話題に触れてほしくない時期もあるということ。たしかに、知ることで勉強になるのは、当事者以外の普通の人たち。その教材、「かわいそうなマイノリティさん」として視線を注がれる当事者の傷はどうなるのか。マイノリティというだけで戦うことを強要されるなんて。  意識されるのもつらい。そっとしておいてほしい。ミッツ・ケールちゃんは当事者ではありませんが、そんな気持ちを別のことで味わったことがあります。

 あと、「誰かがアウトって思ったらアウトになりかねない」という一言が現況を端的に表している言葉だなぁと。やはり「性」については、依然としてタブー視する風潮も根強い。保健の授業に熱心だとからかわれるなんて風景を、ミッツ・ケールちゃんも学生時代に見たことがあります。

 教える側も教わる側も、生々しくならないようやさしいタッチで書かれた教科書を開いて、無難な性教育お茶を濁す。正しい恋愛、正しい性交渉、正しい家族計画。もはや教科書にまとめられている時点で、少数派排除な感じがしてきました。
 保健の教科書はまるで自動車学校の教本みたいだという感想がありましたが、ドライバー全員が厳守しなければいけない交通ルールみたいに組まれているのでは、ほころびが生じて当然です。みんな違う生物なのにね。

「性についての価値観を揺さぶる教材」は必要か

 現状を打破するために、性についての価値観を揺さぶるような副教材を作ろうと、話は進みます。

・これまでの教育ではマイノリティの存在が黙殺されていたことを、新しい教育カリキュラムに盛り込むべき。昔はこうだったからこういう風に改訂したというところに一番の教育がある
・試行錯誤しながら教材を作っている過程も、ドキュメンタリー教材になる

 そんな案も出ましたが、ミッツ・ケールちゃんとしては疑問を感じました。そもそも価値観を揺さぶるということは、既に偏見が固まっているということ。それよりも、価値観が形成される前のまっさらな時点から、マイノリティもマジョリティも当たり前に存在していることを、当たり前に伝えればいいのではないでしょうか。

 昔からある、「部落差別問題について教えることでさらに差別が続くのでは」という議論に近いかもしれません。昨今では部落差別問題にあまり時間を割かない学校も増えてきていますが、個人的な実感として、知らないまま思春期を過ぎた世代は、その後、差別者、被差別者いずれを前にしても、何の感情も起こらないように感じています。

 今回の番組でも、騒がれたくない当事者がいることに対し、「言葉に出したり文字にするよりも、近い距離で察し合う方がベスト」という意見もありました。すぐには無理だろうけど新しい世代で目指すべきはそっちだと、ミッツ・ケールちゃんは思います。

 ただ、現在の社会を生きてしまった我々大人の意識改革は重要ですね。価値観を揺さぶられるべくは私たち。「私はこれを作りたい」だと「私のための教材」になってしまうと言っているメンバーがいましたが、自分たち世代の同胞に向けてはこの方針がよさそう。

性とは、「生きる上での根幹」だと理解した

 番組を最後まで見て、「性」とは「生」、もっと言えば、“生きる上での根幹”という意味合いなのかな、という感じを受けました。単純な「性別」という意味の「性」という範疇では生きづらさを感じていない人でも、それ以外のことで「生」を揺るがすような生きづらさを抱える立場になるかもしれない。それが、今回のメンバーでは足欠損したり、引きこもりになったりということだったんですね。

 かつての女性蔑視の時代に苦しんだ女性たち、現在ようやく見え始めた性的マイノリティの人たちの苦しさ……。現時点でここまで来ました。ここまでは、もはや“わかりやすい痛み”になりつつあります。でも、本当の理想社会はきっと、いつの時点であっても、まだ表面化していない痛みや生きづらさについて想像する気持ちが当たり前に普及した先にあるのだろうと思います。
 誰もが痛みを持っている可能性があると考えるという意味で、全員が当事者問題である。この指摘にミッツ・ケールちゃんはハッとしました。マイノリティとしてマジョリティでない、LとかGとかBとかTとかいう名前がついて市民権は得ていないけれども、当たり前だと気に留めていなくても、実は自分も、性のグラデーションの中のマイノリティかもしれない。
 「自分が安全地帯にいて、危うい場所の人たちを助けてあげたい」なんて考えの、いかに表面しか見えていないことか。安全地帯なんてないという原点に立ち返らねば。そうすれば、差別なんて本当にナンセンス。

 LGBTのどれにも該当しないのにLGBT問題が気になる理由がやっとわかった気がします。ミッツ・ケールちゃんは名もなき危険地帯にいたんだ。