ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★ららら♪クラシック「バッハのマタイ受難曲」

自分とは縁遠いものに思えた宗教音楽。
聖書をモデルに現代にも通ずる普遍的な感情を描いていると捉えたら、聴き方が変わってきそう。
美しいばかりじゃないリアルな人間くささを、美しい音楽で表現したバッハ「マタイ受難曲」を通し、考えたことを書きます。

5/4(金)21:30~22:00 Eテレ

敷居が高いと思われがちなクラシック。初心者でも楽しめるよう、
楽曲の生まれた街や歴史背景、ドラマ、技巧をわかりやすくガイドする番組。


目次

300年前に書かれた宗教音楽

 バッハの名曲「マタイ受難曲が今回の曲。 ”音楽の父”とはいうもののバッハってとっつきにくく、ミッツ・ケールちゃんは「G線上のアリア」とか超有名曲ぐらいしか今まで聴いてきませんでした。 歌詞付きの音楽をあまり聴かないのと、宗教音楽はハードルが高くて。
 「マタイ受難曲」は埋葬シーンの1曲のみ、いつも聴く音楽リストに入っているものの、あふれる悲しみの歌声にどんな物語がこめられているのか深く考えたことがありませんでした。

 名だたる作曲家や作家も絶賛の名曲で「自分の指針となる存在」と言わしめ、今回ゲスト出演した加藤一二三棋士も、名人戦の合間に聴いたらしい。 その素晴らしさをどれだけ受け取れるかわからないけれど、今回の放送を入門編として、改めて聴いてみたいと思っています。

極上バッハ特盛 ?定番クラシック名曲ベスト50

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毎週の礼拝で新曲披露

 マタイ受難曲キリスト教の聖書に基づく歌詞。全68曲3時間もの長編で、イエスが十字架の上で死を迎える物語を描いています。 今でいうミュージカルですね。
 バッハは38歳から生涯を過ごしたドイツ東部の町の教会で音楽監督を務めていました。毎週日曜の礼拝ごとに新曲を作曲し披露したそう。多作なだけでなくどれも歴史に残る大作ばかりで、若いころから聖歌隊、オルガン奏者、と教会音楽に携わってきたことで培ったテクニックが駆使されていたといいます。

 週1回のお勤めって、コンサートというよりもはや日常だったと思います。 人々の日常に毎回傑作を用意していたところから、彼にとっての礼拝の重要度が分かる気がします。

一連の場面に立ち会ったような生々しい感覚

 番組で抜粋されていた曲からは、もともと聖書にあったイエスにまつわるストーリーを、音楽を使って臨場感を出していることが伝わってきました。

 捉えられたイエスに群衆が処刑を望む場面では、口々に「十字架につけろ!」とたたみかけ、群衆の息遣いにも似た音楽に。
 その後、磔にされるイエスに茨の冠がかぶせられたり、最後に埋葬されたり、なされるままのイエス悲しみの声が上がります。

 一番弟子だったペテロがイエスを裏切って後悔するシーンは、作曲家の千住明さんが一度上がってから下がっていく「嘆きの音型」を解説していました。 後悔の念に駆られるメロディが下がっていくばかりでなく一度上がるところに、ペテロの激しい悲嘆が表されているように感じました。
 メロディだけでなくベースとなる音も、一音ずつ等間隔のピチカートで弾かれながら下がっていくことで、涙がしたたり落ちていく悲しさをこめているそう。

 作曲したバッハ自身も家族との死別を多く経験したとのこと。淡々とやまずに沈んでいく気持ちの中に時折訪れる衝動的な悲嘆の波を、自身の体験も基にして、 ペテロに重ね合わせたように思えました。

バッハ:マタイ受難曲(全曲)

バッハ:マタイ受難曲(全曲)

現代にも通じる人間のリアルさ

 イエスをめぐる物語ということで、無宗教のミッツ・ケールちゃんにもその良さが分かるだろうか、と最初は不安でしたが、 現代を生きる私たちにも共通する感情を表現していることが分かりました。
 驚いたのは、美しく構成された音の連なりに反して、必ずしも美しくないリアルな人間くささが描かれていることです。

 ペテロは保身のために、師匠イエスとは無関係だと装ってしまう。完全に裏切ってしまうのならともかく、後悔に暮れるというのが実に人間らしい。 事が起きるまでは志を同じくしていたはずのイエスが処刑され、彼の胸中を占めた思いは、裏切ったイエスに対する申し訳なさだけではないでしょう。 信じてきた正義をあっさり曲げてしまう自身の弱さとか。
 ミッツ・ケールちゃんも自分の中に偽善者を見つけることがしょっちゅうあります。普段たいそうなことを思い描いていても、いざとなれば背に腹は代えられない。 外から見れば「裏切ったペテロひどい」だけど、渦中の当人は彼の正義と必死に向き合った末の後悔なんですよね、きっと。
 私たちみんなが、いざとなったら正義をかなぐり捨ててしまうペテロを心に秘めている

 さらには、群衆になると残酷になる人間の本性。捕縛されたイエスを磔にしろと騒ぎ立てる外野の声は、今の世を生きる私たちにも心当たりがあるように思えます。 集団に紛れることで1人1人の存在感が感じられなくなる。安全なところから目立った人をたたくという構図は、 匿名性の高いインターネット上で言論を行うのが普通になった現代こそ、顕著になっているのではないでしょうか。
 イエスが捕まった!レベルの大事件がないと形成されなかった”群衆”が、現代は常にそこにあります。 誰かが逮捕された、不倫した、はたまたこんな発言をした、と一気に炎上する世の中。 いろんな考え方をする人がいる中で、誰からもお叱りを受けないようなたたずまいって、不可能ではないけど限りなく自由度は低いと思います。 ある人にとってのヒーローはある人にとっては悪者だったり。宗教の開祖というのも危険人物であり救世主ですよね。
 無難な生き方をすれば怒られることはないかもしれないけれど無難なだけ。 尖った人がいたから文化や科学は弾圧されながらも発展してきたことを、ときどきは思い出すようにしたいと思います。 みんな横に習え精神で公平平等な世の中になるのは平和でいいけれど、動いている人にもう少し寛容な世の中であれば。

普遍的なものを自分のテリトリーでどう昇華させるか

 このように、描かれた”人間”に思いを馳せてみると、宗教音楽の特殊な一場面が身近に感じられてきました。 自分には縁のない世界を扱った音楽だと敬遠してきたけれど、聖書をモデルに普遍的な感情を表している、という聴き方ができそう。

キリスト教音楽への招待―聖なる空間に響く音楽

キリスト教音楽への招待―聖なる空間に響く音楽

 冒頭でも述べた通り、各界の著名人に影響を与えてきたというバッハのマタイ受難曲。聖書に記された人間の素朴な部分を音楽で何十倍にも濃縮させたのが、その真髄といえるかもしれませんね。 人間⇒音楽というバッハの秀逸なひな形にインスピレーションを受けて、人間⇒文章だったり人間⇒絵画だったり、それぞれの分野で昇華させるヒントを、芸術家たちに与えてきたのでしょう。

 芸術家に限らず私たち1人1人普通の人間でさえ、日常での物の捉え方や感じ方を豊かにするエッセンスを見出せるかも。ただただ美しい澄み切ったカウンター・テナーの歌声に身を任せながらそんなことを思いました。



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