ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★世界の哲学者に人生相談#3「自由」

社畜」「結婚は人生の墓場」。そう言いながら多くの人は就職し、結婚します。
私たちが自由に憧れるのにも関わらず、最終的に不自由に向かうのはなぜ?ミッツ・ケールちゃんは常々不思議でした。
でも、不自由って人類が目指したものだったのかもしれない。そう思わせる番組をEテレで見ました。 内容紹介と感想・考察を書いてみます。

4/19(木)23:00~23:30 Eテレ

「我思う 故に 我 悩みあり」
現代の私たちが抱えるお悩みを、
哲学者の思想や名言を要約した「お考え」で解決する人生相談室


目次

第3回のテーマは「自由」

 今回寄せられたお悩みは、
親が望む大学を出て地元就職。求められるものに押しつぶされそう。自由を獲得するには?

 親の敷いたレールを歩く人生に不満を感じている様子。

自由を追求してきたサルトル

 ここで、お悩み解決に解決に名乗りを上げたのは、”20世紀の知のスター” サルトルです。 カフェに入り浸り執筆するという新しいスタイルで、哲学家だけでなく小説家、劇作家としても活躍。彼の自由の精神は文学界に多大な影響を与え、ノーベル文学賞に決まりかけるも辞退してしまいます。
 プライベートでも自分流を貫き、同じく哲学者の恋人とは入籍せず、パートナーとして添い遂げる契約結婚。やることなすこと斬新で自由な人生でした。

 ミッツ・ケールちゃんが驚いたのは、サルトルが追求してきた「自由」が、現代では、受け入れられつつある一つのスタイルになっているということです。ノーベル賞辞退はともかく、カフェでの執筆や事実婚は、今でこそ徐々に市民権を得てきていますよね。こうして見ると、サルトルの自由って、その時代に誰もやっていない新しいスタイルを開拓することだったと分かります。
 サルトルは、パリ生まれのシティボーイだったとのことですが、幼いころから次々変わりゆく最先端の価値観を肌で感じてきたことが、人生観に影響を与えたのでしょうか。井の中の蛙じゃないけど、自分が今いるコミュニティの規模が大きければ大きいほど、多様な人、考えに触れられる気がします。

「人間は自由の刑に処されている」

 そんなサルトルの言葉がこれ。自由を”刑”と表現するところから見ると、自由であり続けることに葛藤があったのでしょうか。自由には責任も伴いますよね。

 出演者からは、自由であることによる難しさについての指摘もありました。たいていの人は「自由にどうぞ」と言われると困る、ある程度決められている方が取り組みやすい、というのはもっともだと思います。私たちは自由ではないことに不満を抱いているようで、突然自由を与えられても、全てを自分でプロデュースすることはとても難しく、あれも決めなきゃこれも決めなきゃと、逆に不自由になってしまうもの。

 独立した方が自由がなかったという体験談もありました。フリーということは、舞い込んだ仕事を回す同僚もいないし、トラブルがあっても全て自分で戦わなければいけません。
 本来、1人でできることは限られているし、かかる労力も甚大だから、私たちは人とつるんだり、グループに入ったりします。会社員だと面倒な諸手続きも会社が誘導してくれるし、細分化された目の前の仕事に没頭できるのは強みですよね。ただ、共同体であるためにルールが生まれ、それに縛られている不自由さが生じます。自分で選択したはずの不自由に不満を抱き、自由に恋い焦がれるなんて皮肉なものです。

社会性と自由は相反する?

 ここまで考えてきてミッツ・ケールちゃんが思うのは、不自由なのはヒトだけじゃないということです。群れをつくる生物は全て、その恩恵にあずかる代償に自由を失っていると考えることができます。
 群れを維持するためにルールやエチケット、思いやりなどが必要になります。社会性を身につけた時点で、私たちは自由の刑に処されたのかもしれません。

「実存は本質に先立つ」

 さて、サルトルが人間にのみ当てはまる自由についての定義として述べたのが、この言葉。 すんなり理解しづらいですが、実存⇒存在、本質⇒役割と読み替えると分かりやすい。存在してから役割が決まるということです。

 道具は、役割を考えた上で道具として設計され、存在が生まれます。
 それに対して人間は、空っぽの状態でこの世に生まれる=先に存在します。その後、生きていく中で自分の役割を見つけていくのです。

自由から脱するために、文明は発達した

 ……ということは人間は生まれながらにして、自由の刑に処されているということ。「自由に選択しながら人生を切り開いていく」という仕事を前に途方に暮れた人類が、くみ上げてきたレールが現代の社会なのではないでしょうか。
 学齢期になったら学校でカリキュラムに沿って学んで大人になり、見つけてきたパートナーと結婚というフォーマットに乗っかって、サザエさん一家に象徴されるような幸せな家庭を築く。

 毎日野菜を収穫したり肉を仕留めてきたりしなくても、スーパーに行けば、世間一般の食卓に必要な材料がそろいます。各自で自給自足するより安全だし効率もいいから、分業化して様々な職業が生まれました。野菜を栽培する人、家を作る人、電気を引いてくる人、娯楽を作って笑わせる人
 こうして文明が出来上がり、価値観が作り上げられ、便利だけど不自由な枠組みの中で自分はどんな役割を負えばいいのか考える。それが私たちの自由なんですね。

本当の自由って、無から作り出すこと

 残り物がこれしかない、冷蔵庫に何もないから朝食をとらない。
こんな日常のちょっとしたことも実はすべて自分で選択している。そう番組では解説されていました。私たちの前には、様々な選択肢が並んでいる。どれを選ぶかという点では自由に思えるけれど、”選ぶ”時点である程度自由は奪われています。
 現代に生きる私たちが完全に自由になることはきっと不可能。とすれば、自由と不自由、両者のバランスを納得できる比率で、人生を考えるのがよいのかなと思います。

難しい世界に行って苦労してほしくない

 そう願う親のせいで人生を変えられたという体験談もありました。この”難しい世界”というのは、選択さえすればいい無難な世界に比べ、自分で無から作り出したり工夫したりすることが求められる世界。
 先人によって整えられた合理的社会を省エネルギーで生きる私たちの目には、困難あふれる無法地帯が、”自由”として憧れに写るのでしょう。