ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★デザイントークス+「物語」

映像技術の進歩やARなどの登場で次々と実現する”魔法のような現実”には目を見張るものがあります。
閉じられた世界のものだったフィクションが枠を超えて出てこられるようになれば、身の回りの風景がガラッと変わることになるかもしれませんね。
新しい技術を組み込んで日常をどうデザインしていくのか。携わる人たちの仕事を知り、考えたことを記します。

5/1(火)23:00~23:30 Eテレ

身の回りの至るところにデザインは隠れている。
デザインに宿る精神や哲学をひも解きながら日本のデザインの世界を探求します。


目次

現実世界に”物語”を出現させるデザイン

 フィクションの世界から多くの人に夢を与えてきた日本のアニメや漫画。 そのものを楽しむだけでなく、キャラクターに扮して楽しむコスプレや舞台となった土地を訪れる聖地巡礼のように、 自分たちが住む現実世界へその世界観を引っ張ってきて追体験する楽しみ方も広まっています。

 画面や本の中のストーリーが外に出て、日常に同居するとき何が起こるのでしょうか。

街自体をテーマパーク化

 最近巷で人気の「リアル脱出ゲーム」。閉じ込められた部屋から出るため手がかりを集めて謎を解くFLASHゲームを、現実世界で再現したものです。 従来は画面越しに操作していた私たち人間が自らプレイヤーとなり謎を解くアトラクションで、よく話題に上りますね。
 豪華客船や刑務所、魔女の晩餐会など、いろいろなシチュエーションが用意され、細かい舞台設定と空間デザインで、主人公になった気分を味わえるのが醍醐味。 ストーリーを補強する舞台セットや役者たちがそろい、臨場感を高めます。SNSを通してキャラクターとやりとりしながら進めたりもするそうです。

5分間リアル脱出ゲーム

 さらに最近、舞台が作られた一室の部屋から現実の街へと拡張されたことで、よりリアリティを増しました。 店で待ち構える役者を相手に聞き込み捜査するなど、 自分の体をインターフェースに物語の体験をしていく。オリエンテーリングに似ている気もします。

 現実の街そのものを舞台にフィクションを楽しめるというのは画期的ですね。ディレクターが意図として語っていたように、参加者どうしで”謎を解く”という目標を共有して一体感が生まれるなど、従来のゲーム観を変えていきそう。
 ディズニーランドやUSJなど、ストーリー性のあるアミューズメントは多くの人の心をつかみますよね。それが日本中あちこちで頻出したら娯楽というものはどうなるんだろう。

デジタルとアナログのいいとこどり

 一昔前ならGAMEと言えば、画面を見ながらキャラクターを動かすテレビゲームか、体を動かすボウリングやビリヤードといったアナログゲーム、どちらかを指していて、 その区別は明確でしたよね。
 全く別物だった作られた世界と現実世界との境目がなくなっていくとは。 現実では起こりえないファンタジーなどのストーリー性と、自らの体で実感できる生きた感覚、双方のいいとこどりといった感じでしょうか。

 ゲーム機にバイブレーションがついたことで画面内のキャラクターの動作とプレイヤーの感覚が連動したり、完全にプログラムされたクローズドな世界にプレーヤーどうし生きた人間とのコミュニケーションの要素が足されたオンラインゲームソーシャルゲームが好評を博したり、ゲームは大きな変化を遂げてきました。近年は、AR(拡張現実)技術を使ったゲームも大ブレイクしています。

 現実では体験できない世界を求めてデジタルに入り込んだゲームが、再び現実世界に戻ってくるのは少し不思議な感じがします。

フィクションとリアルは共存できるのか

 くっきり分けられていた架空世界が現実にも流れ込んでくるとすれば、ゲームではなく日常を過ごしている人との住み分けが難しくなるという課題はありそうですね。

 聖地巡礼で迷惑している地元住民の問題を最近よく耳にします。コスプレ界隈では決まった会場内で楽しんで公共の場所では慎むという暗黙のルールがあると聞きます。
 フィクションと知らされずにフィクションが目の前に現れたら戸惑う人も多いでしょう。ドッキリサプライズなんかも現実世界におけるフィクションの一種と言えそうですが、受け手に心の余裕がなければ不快なものとして終わることさえあります。

 フィクションとリアルを分断することで納得してきた世の中は、技術の進歩によって曖昧になる混ざった世界にどんな反応を示すのでしょうか。

余白から想像を膨らませる感受性

 ストーリーを楽しんでもらう空間をデザインするには?
 番組ではそのヒントとして、物語の世界観を想像を広げるという受け手の感受性について触れられていました。与えられた材料が少ないときほど、この力が発揮されます。
 これをうまく使っている漫画制作の技法で、心情的に大切なシーンであえて背景を余白にして登場人物を際立たせるという技が紹介されていました。

 現実では背景が突然消えるなんてありえないけれど、雑踏の中にいても自分たちだけの世界に入ってしまうほど心が動かされる瞬間って確かにある気がします。 そういった、現実にはないものの確かに感じられる気持ちの中の風景というものは、現実でありながら漫画やアニメに非常に近いように思えます。
 逆に、現実で感じた目には見えない本質をフィクションの世界で再現したものが漫画やアニメだ、とも言えるでしょうか。
 英語に比べて、日本語はストレートに言わなくても通じる言語だ、日本人は言外から読み取る能力が高い、という意見もありました。
 そう考えてみると、日本でアニメや漫画が一大文化となったのはごく必然だったと思えてきます。 フィクションにおいて、これまで多様な表現が育まれてきたのは、書き手・読み手ともに繊細な心情の移り変わりに鋭敏だったからかもしれません。

 話をリアル脱出ゲームに戻せば、海外で実施する場合は舞台設定に応じた具体的な装飾をしなければ伝わらない一方、日本では「ここは潜水艦の中です」と言っただけで想像してもらえるという、国による違いがあるそうです。
 国内でリアル脱出ゲーム制作する上では、作り込みすぎず想像させる余白を残すことも重要だということでした。

 考えてみれば、幼い子どもが何もないところで「おままごと」で遊んだり、古来から楽しまれてきた落語で笑いが巻き起こったり、物語性というものは我々の身の回りのあちこちに当たり前に存在していますね。
 何もないところから何かを感じ取る能力に目を向ければ、日常のあちこちに物語を演出するきっかけは眠っている。それを起こすためのデザインにはまだまだ多くの可能性がありそうです。



---広告---