ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★バリバラ「灼熱教室 同じクラスで勉強するとどうなる?」

障害に限らず、誰しも苦手なことや困難は抱えているもの。「障害者」「健常者」と二分してしまう現状を、「障害は”困難なことの1つ”」という認識に変えるための切り口となるか、学校。
興味深い検証がEテレで放送されたので、内容と考察を書きます。

4/29(日)19:00~19:30 Eテレ

”みんなちがって、みんないい” バリアフリー・バラエティー
 障害を持つ人たち、生きづらさを抱えるすべてのマイノリティの人たち、そして健常者と呼ばれるいわゆる普通の人たち。みんなが共に気持ちよく過ごせる多様性のある社会を目指し、これまでタブー視されてきたセンシティブなテーマに切り込み、ざっくばらんに語り合います。


目次

障害者・健常者は同じ授業を受けられるか検証

 障害を持つ子どもたちにとって、学校の選択肢は主に3つ。
・地域の学校ー通常学級
・地域の学校ー特別支援学級
・特別支援学校

 制度的には選べるものの、地域の学校や教育委員会から特別支援学校を勧められるケースは多いと聞きます。先生の負担が大きい、受け入れる設備が不十分、人員と予算を確保できないなどが、その理由。
 そんな現状をきっかけに、障害者と健常者が同じクラスで勉強するとどうなるのか、をテーマに検証する回でした。

 具体的には、知的障害や難病、脳性まひなどの障害者と健常者が同じクラスで学ぶという設定で、それぞれが生徒役をロールプレイング。実際の物理的な障壁について、問題が生じるたびにクラスで解決策を話し合い、国語・音楽・体育の3時間をこなしました。

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通常学級での物理的・機能的な困難を解消

 まずは、教室での授業。
 1人では教科書を音読できない、そもそも手が動かせなくて教科書を机の上に出せない、ページをめくれない、リコーダーを押さえられない、といった困難を解消するため、横の人からの手を借りやすいよう障害者と健常者を隣り合わせにした席の配置に。
 音楽の授業では、隣の健常者の助けを受けてリコーダーの決まった位置で手を固定することで鳴らせる1音のみを担当。クラス全員あわせて1曲の合奏がかないました。

 実技教科の体育では、不可能にも思える大縄跳びに挑戦。跳べる人は跳び、跳べない車いすの人は縄の間をタイミングよくくぐり抜けるルールにし、全員参加の大縄跳びを実現できました。

実技参加で得られる感動VS事故リスク

 子ども時代には車いすであるがために有無を言わせず回数を数える担当しかできなかったという人は、初めて参加できた大縄跳びに感無量の様子。できないと決めつけず自分にできる方法でチャレンジすることで、きっと今までにない経験ができたのでしょう。
 決まった完成形にこだわらず、みんなが参加できるよう柔軟に工夫することは、1人1人に大きな可能性を与えるようです。

 ただ、骨がもろくて骨折しやすい難病の人にとっては、”とにかく参加する”ということが正解だったのか簡単には判断できないと感じました。本人は喜んでいたけれど、一歩間違えれば事故が起きかねません。特に子どもの場合、本人がやりたいかやりたくないかを基準に参加を決めてしまうと事故のリスクが高くなりそう。
 逆に、重い手動の車いすに乗っている人をみんなで押さなければいけなかったときに、「そもそも彼はやりたいのか?」という問いかけがありましたが、ここにも引っ掛かりを覚えました。ただでさえ負い目を感じやすい状況で「大変だけどそこまでしてやりたい?」という空気になってしまうと、挑戦する気が削がれますよね。

 以上のことから、全員参加の体育を実現するには、監督する大人の冷静かつ親身になった判断が絶対的に必要となると思います。しかし、特別支援学校ではない通常学級を担当する教員全てが、一定水準の判断をミスなく行うということはとてもハードルの高いことなのではないでしょうか。
 このあたり番組ではさらっと流していましたが、通常学級で障害のある子どもを受け入れる上でのかなり重要な課題だと感じました。

助ける子どもの学校生活は

 さらに、助ける側に回る健常者の負担も無視はできません。介助員がいれば、という意見が出ていましたが、地域の通常学校では「人員を確保できない」という現実があることは冒頭で紹介しました。
 みんなで交代して助け合えればいいんだけれど、気の利く優しい子に全ての負担がいってしまうのでは、という恐れもあります。介助が仕事の人を呼んでくるならともかく、健常者の子どもも学ぶ主役の1人。自由に学校生活が送れないとなればそれはそれで問題ですよね。

 全体の授業スピードの問題もあります。今回の検証で、トラブルが起こるたびにクラスで相談し合い解決策を見つける場面は、素直に心を打たれました。ただ、教育カリキュラムを時間内に消化できる進捗速度を考えると、「最も困難な人にあわせる」のが心情的には一番だと理解しながらも、それだけでは破綻することが目に見えます。

知的障害・発達障害のある人への合理的配慮

知的障害・発達障害のある人への合理的配慮

 ここまで書いてきて、ちょうど1週間前にこのブログでも取り上げたバリバラ「テレビのバリアフリー知的障害者編)」にも共通するジレンマが浮上してきたことに気付きました。

inusarukizi.hatenablog.com

 テレビも授業も、同時進行で多数を相手にするもの。やはり特性を持つ人に特化した場を用意して、分離することはある程度仕方のないことかもしれません。それは決して差別ではなく、合理的な区別と言えるでしょう。

障害に特化した学校で学ぶ方が幸せ?

 ただ、この話はこう結論付けて終われるものでもないと、ミッツ・ケールちゃんは考えています。障害者と健常者を分けることは合理的なようで、その合理さが顕著になってきた結果、現代社会における「障害者」という、くっきり区分けされた概念が形づくられたのではないでしょうか。存在することは知っていてもみんなが実態を理解できているとは言い難い現状があります。場合によっては、区別が差別を生んでしまいかねないのです。
 よく知らずに育ったことで生じる問題は、健常者⇒障害者だけでなく障害者⇒健常者においても重大。今回の検証のきっかけとなった障害者の子どもをもつ両親が「障害を持つ娘が社会の中で生きていくには助けを求めるなどコミュニケーションが不可欠。小さいうちから健常者と関わっていかないと育たない」と、苦労することを承知で特別支援でない学校を選択したと語っていました。

障害児が学校へ入るとき―特別支援教育に抗して

障害児が学校へ入るとき―特別支援教育に抗して

 世の中の分類が徹底すればするほど、自分とは異なる性質の人を排除しようとする動きが大きくなり、大げさに表現するなら社会的な隔離が進みます。健常者は健常者、障害者は障害者どうしで集まり成長することで、互いを身近に感じる機会がないまま大人になってしまう。
 学習の合理性という点では最適でも、社会に確かに存在している人たちを無視してしまうことは、健常者にとっても障害者にとっても社会勉強という観点で見れば重大な瑕疵です。

 違う人間どうしが一緒に取り組める方法を探すのも教育。現実的にはずっと同じ教室というのが不可能でも、月に一度でも一緒に大縄跳びを楽しむような交流の時間が当たり前になればいいですね。

子どもは正直

 今回、なかなか興味深い企画だったのですが、参加者が全員大人なので、大半が学習の物理的・機能的な面だけにとどまってしまったのは少し物足りなかったかも。
 学校現場を考える以上、精神的にも発達途上の子どもたちの間で「他の子と違うこと」がどう作用するのかという問題は避けて通れないように思います。きれいごとでは語れない難題ですが。

 とは言ったものの、スタートが「学校側の設備が整わず門前払いされてしまう」という課題だったので、そこについてはリアルなところを突いた検証で、見応えがありました。
 (設備を考えるなら、今回触れられていなかった視覚障害聴覚障害についても考えたかったかな)

 心理的な問題については教室の一場面で、「言語障害を馬鹿にされるから人前で教科書を音読したくない」という訴えがありましたね。「笑わないようにしましょう」と示し合わせるのは不自然で、かと言って1人だけ音読せず隠していたって理解が得られない。「障害に限らずみんな苦手なことがあると知ってもらう」という案が紹介されていました。
(余談ですがミッツ・ケールちゃんは幼少期から縄跳びが壊滅的に下手くそで、「大縄跳び連続記録大会」が開かれるたびに白い目で見られ肩身の狭い思いをしたものです)
 「障害は”困難なことの1つ”」という認識に変われば、前項で述べたような「障害者」「健常者」と二分してしまう現状から、お互いに今よりも近づける気がします。



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