こんなこと言ってはなんだけど、みんながわかる情報発信って目指すべきではあるものの実現は不可能じゃないかと思えます。
「知的障害」と一言でくくってしまうけど程度も種類も多様。グレーゾーンの人だっているし、そうでない人も知識に明るくない分野ってみんなそれぞれある。
でも、どの分野も置いてけぼりとなるとあんまり。発信側は努力を怠ってはならないのは当然として、全員参加の社会って遠いなぁ。
そんな余韻にひたる番組をEテレで見ました。内容と感想・考察を書いてみます。
4/22(日)19:00~19:30 Eテレ
”みんなちがって、みんないい” バリアフリー・バラエティー
障害を持つ人たち、生きづらさを抱えるすべてのマイノリティの人たち、そして健常者と呼ばれるいわゆる普通の人たち。みんなが共に気持ちよく過ごせる多様性のある社会を目指し、これまでタブー視されてきたセンシティブなテーマに切り込み、ざっくばらんに語り合います。
目次
障害者の立場でテレビを考える。知的障害者編
- 展開が速くて聞き取れない・ついていけない
- テロップ(文字)がすぐ消える
- 難しい言葉が読めない・理解できない
現在の地上波放送に対し、このような問題を抱えている知的障害者の人たち。 みんなが楽しめて役に立つ情報発信とは?前回に引き続き社会全体を考えた放送を考えます。
知っているようで想像が及ばなかった、ピンポイントのかゆいところ
現状について。番組で挙げられていた知的障害者の人たちの声には、 ミッツ・ケールちゃんが不勉強で知らなかったことや、知っているようで想像が及んでいなかったことがたくさんありました。
まず、理解できない言葉が1つ出てくるということは、その部分だけでなく全体像を見失うきっかけになってしまうということ。
疑問が湧いたらそこが気になってついていけなくなる。単純なようでこれって、人それぞれの特性によってかなり違うのではないかと。
注意を持続させるのが難しい人、実はミッツ・ケールちゃんもそういうところがあるのですが、本などでは自分のペースで立ち止まれるところが
テレビでは容赦なく進んで行ってしまう。
しかも、ここでつまずいたと分かっていれば後で戻れますが、それも難しい人もいると思います。
途中でMCから、どこが分からなかったか説明するのですら工夫が必要という発見の声が挙がりましたが、地味なだけに自分の物差しで決めつけがちなところかも。
次に、音声だけで掴めない人のために、字幕やふりがながあればいいのかと思いきや、話題の流れの中で言葉を読み終えて飲み込まなければせっかくの文字も意味をなさないこと。
文字の最初を見るだけで無意識に想像できる人がいる一方、最後まで一字ずつ追わなければいけない人もいる。スピードは全然違いますよね。
形だけ文字つければいいじゃん、は普段の放送に障害を感じていない者の発想だと気づかされました。
字幕「罰金を払う」とあわせて「罰としてお金を払う」と読み上げるといった一致しない組合せも、
罰金という言葉を理解できなければ余計に混乱を呼びそう。当たり前に使っている側は気にも留めないところです。
あと、例に挙げられていたマイナンバー導入のニュースで、分かりやすくカードを拡大した見本をアナウンサーが持っていた場面。
「このカードは説明のために大きくしているが、本当は定期券ぐらいの大きさです」という説明がないと、本当に大きなものが届くと勘違いでびっくりする可能性があると指摘がありました。
よく図鑑などで「実物大」なんて注釈があるものがあります。私たちは無意識で、そう書かれていない限りは媒体に最適化されたサイズになっていると理解していますよね。
これも自分たちの常識が誰にでも通用すると悪気なく信じているケースだなぁと自省しました。
第一弾のブログの末尾でも、一人一人問題を感じているところは聞いてみないと分からないことが多いと書きましたが、 身体障害以上に知的障害は個人差がありそうで、かゆいところに手が届く不特定多数への発信なんて可能なのか、途方に暮れる思いがしてきました。
テレビが無理ならネットを見ればいいじゃない。マリーアントワネットのごとき盲目性
テレビを見るも見ないも自由だ。わからなければ見なければいい。そう考えてしまいがちですが、ここにも落とし穴がある気がします。
「だって、情報源はテレビ以外にも新聞もネットもあるんだから」
これって、テレビも新聞もネットも滞りなく利用できる人の言い分じゃないでしょうか。
これだけ普及していてワンタッチで流れてくるテレビ。そこに困難を感じる人が他のメディアに持ち替えた瞬間、理解できるなんて現実的とは思えません。
ましてやひとくくりに知的障害者と言ってもいろいろ。身体障害をあわせもっていたり経済的に困窮していたり、どんな状況かわからないですしね。
そんなことは知的障害がない人と同じであり当たり前なんだけど、「知的障害者」と表現した瞬間に他の可能性を消してしまいがち。近くに当事者がいないとなおさら。
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」は、民衆の困窮ぶりをしらない王族の言葉として有名(意図が違うとか諸説ありますが)ですよね。 当時を生きていない私たちが外から見るから滑稽に見えますが、時代を早送りして食べ物⇒情報に置き換えてみれば、自分が困っていない・当事者じゃないから出る呑気な言葉という意味では同じようなものだと感じます。
ユニバーサルな放送の実現は、難しいことながら公共放送のNHKにとって避けては通れないと前記事でも触れました。
政治ニュースが理解できず選挙で誰に投票すればいいのかわからない、消費税改正など生活に直結するニュースを理解できない、となれば社会の一員として文化的な最低限度の生活にも支障をきたします。
身体障害者が日常生活を送れるよう、スロープやエレベーターなど街のバリアフリーが整備されてきたのと同様に、
知的障害者にも生活に必需の情報は行き渡るように、発信側は創意工夫を凝らさなければいけませんね。
と、理想を書いてみたものの、
そんなに簡単にいく話ではありません。
放送時間は限られています。
もっと言えば知的障害者だろうが誰だろうが、1日24時間という持ち時間は限られています。
映像で状況を把握する、漢字から意味を推察する、接続詞で先の展開を予想する……といった 健常者が何気なく使っている能力に頼っている部分も言語化して説明するとなると、情報量がとんでもなく増えてしまう。
わかりやすいニュースの検証では、補足説明を充実させるも、
時間内に入りきらず、映像を止めて説明を追いつかせるという事態が起きていました。
通常、1つのニュースの尺は1分~1分30秒とのことで、これを過ぎてしまうということは、
1ニュース中で扱う概念を減らすか、ニュースの総数を減らすか、他の番組を食うか。
当たり前ですが、手厚くすればするほど情報量は減ります。1日ニュースだけを見ていればいいわけじゃないし。うーん。
良かれと手を加えるほど、発信者側の手垢に染まっていく
そんな中、あえて詳しく説明しないというのは、残念ながらなかなかに良い手段と言わざるを得ません。
「共同住宅」を単なる「住宅」にするなど、本筋に関わらない部分を割愛するという方法です。
伝えることは一つに、要点を絞り込んで、局所的に説明を充実させるという作戦ですね。
ただ、番組でも指摘されていましたが、ここには、情報を発信側が恣意的に落としてしまうという危険性を孕んでいます。 どの情報が必要でどの情報が不要なのか。一か所を誇張することで本来の内容とはニュアンスが曲がってしまいかねません。 どんなニュースでも人が報じる以上避けられないことではありますが、手を加えれば加えるほどその程度は大きくなっていきます。 編集側に悪意がなくとも、
そのニュースを理解する上では蛇足でも、他の場面で役立つかもしれません。
出演した当事者が「障害者という意味は分かる。私のことでしょ」と言っていました。
ある場面では障害者と言えば「私」、でも別の場面(特にニュース)では社会の中の障害者全般だったり。
教える側は分かりやすくと思って「障害者とはあなた」と教えるけれど、身体だったり精神だったりいろんな障害者がいたり、
そういう人たちも含めての社会なんだよ、という世界観は知的段階しだいではとても重大な概念かもしれません。
割合の概念が分かりづらい人には割合を割愛したら簡単ですが、500人中10人が11人に増えますと言ってしまえば、とにかく1人増えるんだなと理解しかねません。
余談ですが、ミッツ・ケールちゃんが学生のころ通った進学塾では、
「この学習項目では~~ということだけわかっていればいいよ」「とりあえずこう理解していればいいよ」「押さえるべくはここだけ」という教え方がよくありました。
受験という目標に対してはそれが近道なのかもしれないけど、ミッツ・ケールちゃんはへそ曲がりだったので、この言葉にはいつも違和感を覚えていたものです。
まぁひとまず基本を押さえておいて後で興味があれば深掘りという意味ではよいのかもしれないけれど。
教わる側なのに、何かものを教えるということの責任を感じたミッツ・ケールちゃんは無事進学した後も家庭教師や塾講師のアルバイトはなんとなく敬遠するようになりましたとさ。だいぶ話がそれましたね、失礼。
仕方ないことも受け入れる正直な世の中になればいいな
ここまで、発信する側の話を続けてきましたが、出した情報が受け手にちゃんと伝わるかという問題において、 最後の最後は、やはり受け取る側次第であるというのが、番組を見たミッツ・ケールちゃんの結論です。 発信側がどう工夫しても、受け手の知的段階によって、抽象的な概念の把握が難しいなどといった事態が起こるのは仕方がないこと。
スタジオゲストのタレントが「漢字が苦手で読めないことは私も多い」と話していました。
母語が日本語でない人や、ニュースの初報を知らずに続報から見た人、その分野に疎い人、
知的障害に関わらず起こりうる話ではあります。
アナウンサーでさえ「普段分かっているつもりでもいざ説明を求められると難しい」とこぼしていましたが、
理解しているつもりでも発信された100%理解できているとは限りません。
ある新聞全国紙のスタンスとして「中学生でも読み進められる」という基準を設けているそうですが、
いろいろな事情から、義務教育で教える「生活に困らない知識や教養」を十分に学べなかった人はある程度存在しているのも事実。
ミッツ・ケールちゃんが以前、訪れた特別支援学校では、それぞれの知的段階に応じて、テレビで聞いた単語を新聞で見つけたり話題の写真を眺めたりして喜ぶ生徒の姿があり、出来る範囲で社会に慣れ親しもうとする彼らは生き生きと見えました。
そんな現場を見ると、結果的には100%伝わらなくとも、情報を得たいという意欲には応えられるような仕組みを考えようとする努力は
社会に活きるだろうと思えます。
昨今、公平・平等を求める動きが加速化する一方、見た目の細かいところに捉われすぎなのではないかと個人的に不安になることもあります。
当事者のリアルな声を大切にする実態の伴った変化でなければいけないなぁと、社会の一構成員として考えています。