ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

加害者ケアの必要性―悪への非難は、新たな事件として社会に跳ね返る

 悪を責め立てる世の中は、果たして良い方向へ進むのだろうか。

 約4か月前に散歩中の園児16人を巻き込む死傷事故を起こした容疑者の女性が、公判中である今、別件で逮捕された。
 出会い系サイトで知り合った男性に連絡を強要したり脅したりしたストーカーの疑いがかかっているのだという。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20190930-OYT1T50217/www.yomiuri.co.jp

 この報道を受けて、ネット上では多くの反応が飛び交っている。

「公判中なのに、出会い系だなんて全く反省の色が見られない」
「事故を起こすような人は、やはり人間性がおかしい」

 しかし、この話を「悪い奴はやはり悪かった」という単純な話で終わらせていいのだろうか。

人を死なせた重み

 そもそもの発端である死傷事故は、右折時の判断ミスで起きた車同士の衝突から、偶然近くの歩道を散歩していた保育園児の列に突っ込んだというもの。
 不運なことに何人もの子どもが亡くなったり傷を負ったりした。

しかし、
-この事故が容疑者の故意によるものではなく、過失であったこと。
-また現在、事故の公判中であり、容疑者は自分の起こした事故に向き合っている最中であること。

これらを踏まえると、今回のストーカー疑いの件は、事実であるなら確かに犯罪ではあるものの、背後に何がしかの事情があったのではないかと推察される。

 園児死傷事故が明るみになった後、容疑者の女性は世間から激しいバッシングを受けることになった。
 その一方で容疑者自身も、起こした事故の重大性に衝撃を受け、自分を大いに責めたのではないだろうか。

 故意でないにせよ、いや故意ではないからこそ、「人を死なせてしまった」という事実は大変に重いものだろう。

 その罪悪感から精神的に不安定になって、たまたま知り合った男性に救いを求めたのだとしたら。
しかし、その男性には受け止める用意がなかったとしたら。
連絡を断とうとした男性にすがりついてしまった末に、すれ違いで事件化したのだとしたら。

悪を責め立てるだけでは何も解決しない

 「人を死なせたのだから、苦しむのは自業自得」という正義の声は恐ろしい。
逮捕に至るまでに何があったのか、想像する余地を完全に奪ってしまうからだ。

 もちろん、意見をネットに寄せる人たちもこのブログを書いている私も、この容疑者の人となりを知らない。本当に根っからの悪者である可能性も否定はできない。
 しかし、上で書いたような経緯が完全に誤っているとも言い難いのではないか。

 追い詰められた容疑者の女性が救いを求める先が、出会い系ではなく専門機関なら、おそらく事件にはならなかった。
 そこを女性の非だと取ることもできる。でもそれすら判断できないほど常軌を逸していたかもしれないし、「加害者である自分が精神的な支援を受けるなんて許されない」という思いもあったのかもしれない。

 支援を必要としている人ほど、誰にどのように助けを求めたらよいのか正常な判断を下しにくいということはあるはずだ。
 そんなときこそ福祉の側から迎えに行って手を差し伸べるというシステムが求められるのではないだろうか。

加害者へのケアは社会のため

 悪者を悪いと断罪してしまうことは簡単だし、安全地帯から誰かを非難すれば一時は憂さが晴れるかもしれない。

 しかし、罪を犯した人を刑罰以上に追い詰めても、社会として得はない
いたずらに二次被害を生みだし悲劇を増産することにさえなる。

 事件が起きたとき真っ先に助けが必要なのは、当然、被害者やその家族たちである。
 しかし、それとセットで罪を犯してしまった人にも精神的ケアを施すことを忘れてはならない。

 加害者になってしまった以上、罪を罪として償うのは当然だが、いつか更生し社会復帰するための助けが必要不可欠だ。

 それは、加害者自身のためだけでなく、長い目で見れば安全な社会づくりのためにも役立つ

犯罪や非行の裏にあるもの

 犯罪と聞けば、一刀両断に「悪」として切り捨ててしまいがちだ。
しかし、どうしようもない罪を犯した人にでも、何かの事情があることは多い。

 そんな世界を知るために、医療少年院で勤務した経験を持つ精神科医の書いたこちらの本をおすすめしたい。

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

 犯罪や非行のニュースを耳にすると、一般人である我々はつい自分に当てはめて、「自分だったらそんなことしないのに」「なぜそんなことを」という発想に陥る。
 犯罪者が自分と同じ人間、同じ社会通念や価値観に基づいていることを疑わないから。

 そんな無意識のカテゴライズを打ち砕くのが、本書の提示する非行と知的障害の相関だ。

 最低限の教育からこぼれ落ち、悪いことを悪いとも思えない反省以前の非行少年に対し、
悪は許せない⇒罰を受けるべきと一蹴しても何も解決しないのだと思い知らされる。

 切り捨てられた人たちが、次に社会の関心を買うのは犯罪者となったときなのだ。