ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

既得権益など守る必要ない、と言うけれど――無駄が一掃されない理由

はんこ文化は過去の遺物?

 はんこ文化の是非が取り沙汰されている。
内閣改造によって生まれた高齢のIT担当大臣が、はんこ文化とデジタルを両立したいと発言したことが発端だ。

 捺印の物理的な手間、ネット時代には非効率であること、そもそもの信頼性……など、議論は様々。
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 今回は はんこが槍玉に挙がっているが、他にも、新聞、出版、テレビ……社会の形態が変わることで立ち位置が変わった過去の中心的存在に「本当に今も必要なのか?」という疑惑がかけられるのは今に始まったことではない。

 時代遅れなアイテムや文化は今すぐ撲滅すべし。業界の反対で切り捨てられないに違いない。横行する既得権益が悪だ。既得権益など守る必要ない――。と論は過激さを増していく。

 しかし、そんな中で置いてけぼりになっていることがある。
自分たちに、いつかその論が跳ね返ってくる可能性についてだ。

効率化と既得権益は表裏一体

 既得権益に阿るな――その主張をする人たちは自らが別の既得権益の恩恵にあずかっていることを自覚していない。

 自分の仕事、はたまた人生が、何も無駄なことはなく、社会に対して確実に有益だという自信があるのだろうか。
 もしくは自分のことは棚に上げたきり忘却の彼方なのだろうか。だとしたら特権意識も甚だしい。

 社会を効率化しようとするなら、そりゃあ無駄を一掃すればよいのだ。
でもそれをするためには、無数の血の通った人が憂き目を見ることになる。

 このアイテム/文化は無駄。世の発展には必要ないから破棄してしまえ。関係する人たちが路頭に迷う?知ったことか。そんな泥船に乗りかかったそいつらが悪い――。

 この考えは自己責任論の下で正論に思えるが、期せずして自分に跳ね返ってくるリスクを考えれば、とても安易に発言できるものではない。

人は断捨離できない

 新しい技術が日々生まれている分、新しく”無駄”に認定される人たちも日々生まれることになる。
 そのたびに断捨離してしまえば効率的だが、自分の肩を叩かれるのも時間の問題だ。

 運良く自分の属する業界がその魔の手を回避したとしても、そのような社会正義が幅を利かす状況ではたちまち社会不安が引き起こされる。
 身に覚えもなく業界の都合で、急に解雇されたり、内定取り消しになったりする事態が身の回りで頻発したら? とても従来の生活を保てないことは疑いようもない。

 もっと言えば、「この人たちはただ生きるだけで何も生み出さず、大した価値もない」。そう判断されたときに、人間がいともたやすく処分される世の中であってよいのか。

 実際には、今はそんな世の中ではない。この国は法治国家で、福祉制度もある程度整っている。
”そんな世の中”じゃないからこそ大目に見てもらえて、日常の安寧を得ている部分もあるはずなのだ。
そこから目を背けて攻撃に回るのは、ただ幼稚なだけだ。

 既得権益という言葉は大層だけれど、もっと分解して考えれば、人権に近いものだと思う。

 何も生み出さなくとも生きているだけで尊いというのが、人権の根本だ。
既得権益が倒れないことによって生き永らえている人たちにも、尊重される権利がある。

 この前提を覆すことにつながるから、既得権益は倒せないのだ。みんな自分たちのためなのだ。

無駄が未来を救うかもしれない

 過剰に既得権益の肩を持つ気はないし、伝統の名の下に好き放題している文化は身の程を弁え、整理されるものは整理されるべきとも考えている。

 それでも世の中の求める方向が短絡的になりすぎていること、そして、ネットの普及でそれが可視化されるようになったことには、著しく危機感を覚える。

 そもそも、目先を見れば役に立たないことを全て排除してしまえば、おそらく科学はここまで進歩しなかった。
即効性のないもの、即戦力にならないものは全てだとするなら、人類の発展の先細りは目に見えている。

 各人の思想が寄り集まって世論を形成する。
失うものはないと勘違いして、言質を取られることを恐れもしない私たちだが、その未来を見据えるのがおそろしい。

 自分が丸腰ということも忘れて、自らが放った毒ガスに時間差でやられるような間抜けな末路を辿ることになりかねない。

日本を亡ぼす岩盤規制 既得権者の正体を暴く

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岩盤規制 ~誰が成長を阻むのか~ (新潮新書)

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ポケモン&FFで考える、ベンフォードの法則(数学)

数学の法則・ベンフォード

 世界中にあふれている数字。
それらの先頭の桁が何の数字なのかをひとつひとつ拾い上げて記録していく。
すると、1が最も多く、次が2、さらに3、4、……と続くことが分かっている。

 世に言う「ベンフォードの法則」である。約3割の数字は先頭の桁が1であることが知られている。

 グラフにすると理解しやすいこの法則。ネットを検索すると数々の解説ページが出てくる。

 それらの正攻法的な解説は他ページにお任せし、ここでは個人的な考えとして、RPGロール・プレイング・ゲーム)に例えて考えることを提案したい。

初期メンバーは新参者より戦っている

 若い数字ほど出現率が高いというベンフォードの法則。
RPGで、初期から行動を共にしている仲間の方が、後半に登場する新参者と比べて、総合的には出番が多いのと似ている。

 ゲーム序盤では、敵が襲いかかってきたときに戦わせることのできるキャラクターは初期メンバーに限られている。

 手持ちのポケモンピカチュウだけだとしたら、バトルするたび繰り出すことができるのはピカチュウのみだ。
ずっとピカチュウのターン。

 その調子で100回戦えば、そのまま100回分の経験値をピカチュウは得たことになる。

 次にキャタピーを捕まえたとする。

 毎回、ピカチュウキャタピーを同じ割合で繰り出すとするなら、100回戦えば、ピカチュウキャタピーも50回分の経験値をゲット。
(ただし、1回のバトルで両方を出すトリッキーな手は使わないものとする)

 つまり、キャタピー50に対し、ピカチュウは序盤の分も合わせた150の経験値を持っていることになる。

 さらに、ポケモンをゲット→手持ちのポケモンからランダムにバトル、を繰り返していく。
そうしていくと全クリ後に振り返ってみれば、捕獲時期が早いポケモンほど、合計の戦闘回数は多いということになる。

ティファはユフィより経験豊富

 この話の前提として、そのバトルの時点で選べるメンバーの中からは、誰が選ばれる割合も同じとしている。
 ただ実際には、重点的に育てたいキャラクターが優先されることが多いだろう。ポケモンだと、ゲットした時点でキャタピーはレベルが低く、ピカチュウに追いつかせるためバトルに出す回数は多くなるかもしれない。

 それなら、FF(ファイナルファンタジー)シリーズの設定で考えてみよう。
 FFシリーズでは、途中で仲間になるキャラは、登場時点で既存キャラと同程度のレベルに設定されていることが多い。

 FF7で考えるなら、
初期から冒険を共にしているティファの戦う回数が、後半に仲間になるユフィよりもはるかに多いことは明らかだ。

(途中で離脱するなどこちらはこちらで複雑な分、単純比較はできないが、簡略化して考えることにする)

ワンオペ時代の実績を積み重ね

 ここで、ベンフォードの法則に戻ろう。

 数字として記載される以上、カウントされる対象は当然、有限の数だ。
選ばれる候補には上限がある、つまり、連綿と続く数字の流れをどこかで打ち止めしたものからランダムに選ばれる前提なのである。
 どこで打ち止めされるかによって、先頭の数が定まる。

 そう考えれば、候補がどこで打ち止めされても含まれている、若い数字の方が出現率が高いことになる。

 選ぶ候補が 1 しかなければ、カウントするたびに1の出現数が増える。ピカチュウしかいないときと同様に、ワンオペ状態だ。
 候補が 1 2 になれば、1が選ばれる回数は2と同等だが、候補が1しかなかったときの実績も含めれば、1の方が当然出現数は多い。
 さらに 1 2 3 に増えたなら、3がこのときの出現数しかないのに対し、1と2はそれまでの実績も含めて出現数が多くなる。

 数を選び取る際に、どこかの段階で打ち止めされる前提なら、積み重ねできる分、若い数の方が総合的な出現回数は多くなるのだ。

 桁が上がって10の位でも同様だ。
11 12 13 14 15 16 17 18 19
を候補として選ぶなら、先頭1しか出ない。1が出ずっぱり。

候補が11~29の中から2桁の数を選ぶなら、1も2も先頭になるのは同割合だが、1はさっき出ずっぱりだった実績も合わせる分、合計は多くなる。

直感的にも納得できるのではないだろうか。

身近な世界にあてはめる自然科学

 ピカチュウも、ティファも、1も、最初期から候補に入っているという点で、他のものよりも回数を重ねる上で有利なのである。
 チャンスがほしければ早く参入すること、と考えれば、RPGどころか社会のいろんな場面にも共通しそうな原理だ。

 数学や科学を直感的に捉えようとしすぎるのは、専門の人から見ればナンセンスなのかもしれない。
 それでもいろいろ身近なものに置き換えて、直感的に考えるのが私は好きだ。

↓化学の基礎を感覚的に掴むには、こちらのシリーズが面白い。

化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで

化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで

量子力学を少しかじった人には、こちらの書籍を。
少しダークなドラえもんと「シュレディンガーの猫」などを考える。きっと楽しく読んでもらえるはず。

哲学的な何か、あと科学とか

哲学的な何か、あと科学とか

 真面目に勉強するのも良いが、たまには息抜きがてらこんな本で多角的に考えてみるのもおすすめだ。


   --数学に関わる記事は、他にこんなものも書いています-- inusarukizi.hatenablog.com



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人間としての”親”を認められる世の中に「そして、バトンは渡された」書評

 家族ってなんだろう。
血がつながっているということ?それだけで楽しいときも苦しいときもやっていけるもの?

 身近な存在だけに、歪な形を見ないふりしてやり過ごしている家庭も存在する。
きっと大切なのは、血のつながりよりも、もっと根本的な相手を尊重する気持ちだ。

 そこに欠かせないのは双方向性。親が子どもを慈しむだけでなく、子どもも親を一人の人間として尊重して初めて、真の絆が育まれるのだろう。

 そんな家族観、はたまた社会の役割までをも、穏やかなまなざしで問いかける物語が、2019年本屋大賞の頂点に選ばれた。

【2019年本屋大賞 大賞】そして、バトンは渡された

【2019年本屋大賞 大賞】そして、バトンは渡された

 親の死別離婚再婚を経て、3人の父2人の母を持つ優子が主人公。
名字も幾度となく変わり、家族の形態は17年間で7回も変わった。

 ……と、設定だけ聞けばどんなにひどい境遇の子どもだろうと思わず憐れんでしまう。

 でも、当人は「全然不幸ではない」と考えている。

 家庭だけでなく学校や近所の人間関係を通して成長していく中で、
    「あなたみたいに親にたくさんの愛情を注がれている人はなかなかいない
とまで他人に言わしめる少女の世界。

 そこには、愛があふれている。

現代のおとぎ話

 本作はおとぎ話のようにやさしい。
次々とバトンタッチしていく親たちがみな本気で優子に向き合ってくれるのだ。

 ある意味で現実味のなさはずっと付きまとう。
一方で、血のつながりがあろうとなかろうと、目の前の他人にこれだけ真摯に向かい合う世の中だったらどれほどいいだろうとも思わせられる。

 合理化を追求しすぎた現代では、自分の得にならないことへの介入を極力減らす方へ向かう流れ、個人主義が進んでいる。
 追い詰められた親が誰にも助けを求められず苦しみ、子どもにしわ寄せがいく事例も多い。

 社会みんなで次世代を担う子どもたちを育てる、というぐらい寛容な世の中になれば、現代の閉塞感も少しは和らぐだろうか。

親だって人間だから

 本作の主人公・優子の前に、入れ代わり立ち代わり親として現れる大人たちは、常識に当てはめれば100点満点の親ではないかもしれない。
 それぞれ人生の壁に突き当たって、自分自身のために一度は愛した子どもの手を放し、次の親へとバトンを渡してしまうのだから。

 それでも、一つ屋根の下で暮らすうちは、それぞれの形で愛情を注ぐ。離別の理由は、親子関係ではなく、あくまで親自身の問題なのだ。

 親だって一人の人間である。已むに已まれぬ人生の壁に直面することだってある。
 そんなときに受け皿になれる社会があれば、親子どちらにとっても幸せな未来に進むことができるはず。本作のあたたかい筆致から、そんなことを考えた。

追い込みすぎない愛情

 実の親子だから、血がつながっているからといって、幸せが確約されているわけではない。

 血を分けた我が子であっても、所詮、他人は他人子どもの全てを理解することは不可能なのだ。
 ずかずかと近づけば近づくほど、相手という人間の本質に到達するどころか離れていくこともある。

 優子と養親たちは、実の親子ではないからこそ常に距離感を測り、相手のことを尊重許容することを意識してきた。

 相手が大事だからこそ本質に迫りすぎず済ますこともある。
時々ぶつかって乗り越えて一歩ずつ本質に近づいていく。人間関係の基本とはそういうものではないか。親子だって、立派な人間関係だ。

 この家族の形には、真の愛で結ばれた人間関係へのヒントが潜んでいるようだ。
 いつでも親を愛し、愛されていた少女の姿に触れることで、読み手の私たちも自分の大切な人をもっと愛おしく思えてくる。

また別の幸せの形

 突拍子もない家族設定は、受賞後第一作の「傑作はまだ」でも健在。
こちらでもじわじわとした幸せを感じ取ることができる。

傑作はまだ

傑作はまだ



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”大家さん”も”僕”も、私たちの理想だった―書評★大家さんと僕(矢部太郎)

 近所にどんな人が住んでいるのかもわからない。
たくさんの人が住む街で寝起きしているのに、人のあたたかさを感じる間もない。

 現代の都会で何の不自由もなく暮らしているにも関わらず、そんなむなしさを覚える人は多い。
心を癒す人間交流を求める暇もなく、日々の生活に忙殺されてはいないだろうか。

 そんな時代の今、漫画「大家さんと僕」が好評を博している。
2年前に出版された本作は手塚治虫文化賞を受賞。テレビでたびたび特集も組まれている注目の作品だ。

大家さんと僕

大家さんと僕

 著者がお笑い芸人であること。芸人としてはパッとしない、でも人の良い矢部太郎さんということも話題の一つだろう。
 しかし、人気の秘訣はとてもそれだけでは語れない。手に取る人の心を惹きつけて離さない純朴なあたたかさが詰め込まれているのだ。

近くにいる、それだけのことから始まった交流

 お笑いコンビ・カラテカの一人、矢部太郎さんが元住んでいたマンションを追い出されるところから物語は始まる。
 辿りついた物件は、高齢女性の大家さんが一人暮らしする住宅の2階部分だったのだ。

 世間の波に呑まれず、自分らしい生活を規則正しく続けてきた大家さん。彼女なりの親切さから、矢部さんを何かと気にかける。
 最初はその距離感に戸惑う矢部さんも、食事を共にしたり、大家さんの話す思い出話に耳を傾けたりして、徐々に打ち解けていく。

 大家さんと矢部さんの交流は、読む人の気持ちを落ち着かせてくれる。
忙しい毎日でないがしろにされがちな、人と人との心からの交流、2人の人間味が心を打つのだろう。

 精密とはいえなくとも素朴な味のあるイラスト、ファンタジーさと地続きな世界観が、作品への没入感を増幅させている。
 8コマ漫画という独特なリズムに、ページを追うごとに呑み込まれていく。

 感銘を受けた著名人らがメッセージを寄せるスピンオフ本も発売されている。

「大家さんと僕」と僕(番外編本)

「大家さんと僕」と僕(番外編本)

著者の矢部さんが振り返る制作秘話もなかなか面白い。

こんな年の重ね方をしたい

 当初1冊で終わりの予定だった「大家さんと僕」だが、人気を受けて週刊誌での連載が続行。
このたび続編が発売された。

大家さんと僕 これから

大家さんと僕 これから

 モデルである大家さんが連載中に亡くなったこともあり、今作が本当に完結編のようだ。

 年老いた大家さんとの交流は、あたたかいと同時に、どこか終わりを予感させる哀愁も漂う。

 作品自体の良さもさることながら、時は人生100年時代。誰もが老後に思いを致すようになった世相も、ヒットした要因なのかもしれない。

 先行きは不透明、年金も破綻するかもしれない、今は今の生活を守り抜くので精一杯……。
そんな日々に軽く読めて、将来の理想を大家さんに重ねあわせながら、軽くはない人生観に辿りつく。

 大家さんと矢部さんの穏やかで、でも結びつきの強い関係性に、これから確実に老いていく私たちはぐっと惹かれるのだ。

矢部さんも、大家さんも、私たちの理想形

 人間関係の希薄な現代に生きている私たちは、温かい人間関係に恵まれている矢部さんになりたいと夢見る。
 同時に、先の見えない超高齢化社会に生きてもいる私たちは、ささやかながらも自分らしく充実した老後を送る大家さんになりたいと夢見る。

 ほっこりしていてなんかいいな、と私たちが直感的に感じる「大家さんと僕」の根底には、現代人である私たちの憧れが潜んでいるのだ。

 将来への不安に駆られたとき、矢部さんと共に大家さんと共に、人生を見つめ直してみてはいかがだろうか。

おまけの一冊

 年老いても豊かな人間関係を育みたいと思う気持ちに、静かに寄り添ってくれる作品としては、以前紹介した「姑の遺品整理は、迷惑です」(垣谷美雨)もおすすめ。
inusarukizi.hatenablog.com  タイトルを見る限りではいかにも苦しそうな本だが、その印象とは正反対とも思えるあたたかいラストは一読の価値がある。



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