幸せを目指すうえでポジティブというのはいいことだけど、意志の伴ったポジティブになりたい。
惰性でポジティブを演じている先には幸せはなさそう。
自分の意志で幸せを掴み、周囲の幸せも吸収できる、幸せの好循環に人生を持っていけたらいいな。
幸せって掴みどころがないだけにいろいろ考えられますね。番組の内容と考えたことを書きます。
5/17(木)23:00~23:30 Eテレ
「我思う 故に 我 悩みあり」
現代の私たちが抱えるお悩みを、
哲学者の思想や名言を要約した「お考え」で解決する人生相談室
目次
幸せになるヒント
今回も主婦のお悩みです。
同居する義母に厳しくされ、夫や子どもは味方になってくれず、家庭内の状態が最悪。幸せになるには?
来ました!テーマ:幸せ。
哲学に頭を悩ます意味って、とどのつまり、幸せになるためだと思うのです。
”幸せ”って言葉にしたら単純だけど、その形もたどり着き方も1人1人違うもの。どんな思考で自分を誘導すればいいのか。
「こうしたら幸せになれる」なんていう公式はないけど、せめて幸せをオーダーメイドするためのヒントがほしい。
高校教師が教える”幸せ”
世界三大幸福論の中でも、一般人にも馴染みやすい幸福論を唱えたアランが今回の相談相手です。
- 作者: アラン,白井健三郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1993/02/19
- メディア: 文庫
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フランス農村地帯の高校の哲学教師として生徒1人1人と触れ合う中で、机上で終わらない具体的な哲学を大切にしました。 多数の作品で大ヒットを飛ばした中でも、幸福が彼の代名詞。
多感な時期の子どもたちと将来を考える上ではやはり、”どうやって幸せになるか”がキーポイントだったんでしょうね。
どの年代においても幸せは目指すものだけれど、大人になって一度人生が固まってしまったら、今ないところに幸せを探すよりも目の前のやらなければいけないことをこなすのに精いっぱいになりがち。
進路を模索する高校生たちに囲まれて人生選択への助言を求められるような環境は、哲学を深めるのに絶好の場だったのではないでしょうか。
ちなみにアランというのはペンネームらしい。哲学者ってペンネーム使うんですね。学校や生徒に身バレしたくなかったんだろうか。
幸福は他人に対しても義務である なぜなら幸福は人に伝染するから
そんなアランのお考えがこちら。権利ではなく、義務であるという表現は面白いですね。
他人に気兼ねせず自分の幸せを求めていいんだよというメッセージにも聞こえますし、1人1人がまずは自分の幸せを掴むことで世の中全体を幸せに向かうサイクルにしていこうという提案が潜んでいるようにも思えます。
人と人の間で幸福度が伝染するというのは直感的にも分かりやすい。 不幸も伝染しますよね。愚痴ばかり口にする人と話していても気分が落ち込んでいくし。
と、ここで感じたのは、不幸は受け手が誰であれ伝染しやすいけど、幸せは伝染するのに多少のハードルがあるのではないかということ。
他人の幸せを喜ぶには、自分もある程度満たされているという心の安定が必要だと思います。 そうでなければ、自分と比較して嫉妬したり、他人の不幸を望んだりすることになりかねません。
幸福が伝染する時点で、自分も幸福である。社会全体での幸せってかけ算なのかもしれませんね。 自分が幸せゼロである限り、幸せのおすそ分けを受け取ることすらできない。
とすれば、「幸福は人に伝染するから義務」という言葉は、自分から影響を受ける他人のために幸せでありなさいという義務的な意味のほかに、自分も他人から幸福の伝染を受けられる幸せの下地を作っておきなさい、という自分のためのアドバイスも含まれていると考えるのは行き過ぎでしょうか。
悲観主義は感情によるもの、楽観主義は意志によるもの
幸せに対する心構えは分かったけれど、具体的にどうすればいいのか。
次に出てきたアランの言葉は、物事の捉え方についてのアドバイスです。
ポジティブになろうと意識しなければ、どんどんネガティブに傾いていくということですね。
雨の日は気分が鬱々とするけれど、そんなときこそ「空気が洗われたようで美しい」など意識的に発想を変えて、晴れ渡った顔つきをしたいものだ。そうアランは記したといいます。 番組では、ひどい渋滞に巻き込まれたり、冒頭のお悩みのように姑から厳しくされたりしても、その中で良いことを見つけ出すトレーニングが紹介されていました。
ミッツ・ケールちゃんは会社の研修で、失敗したときに備えたメンタルトレーニングというものを受講したことがありますが、まさにこの手法でした。
社員どうし2人1組になり、社内で起きがちなトラブルを1人が挙げ、もう1人が発想の転換を考えるというもの。
関係先に失態があったなど既に起きたことは変えられないからこそ、次の一手で持ち直せるように自分を変えるという作業なんだなと、やっているうちに気が付きました。
事実は変えられないけど、事実をどう捉えるかは、自分次第でいつでも変えられますものね。
悲観主義から楽観主義への切り替えというのも、同じようなことが言えそうです。
人間、最悪の事態になったときの精神的ショックを和らげるために悪い方に想定しておく心理が働くという話を聞いたことがあります。
何かが起きた、起きそう、なときにネガティブになってしまうのは、本能や感情に流されている状態なのでしょう。
その流れに逆らってポジティブでいるには、目の前の事態から目をそらさず本質を見極めた上で、意志を働かせるという能動性が必要だと思います。
こう考えてみると、ポジティブというのも質が大切。 思考停止したままとりあえずポジティブになっているとしたら、それは単なる能天気で感情に流されている状態です。 不安なら不安の元凶を探して対策を打ち出すことが必要ですし、そういう意味でも、意志を伴った楽観主義というのは重要なところでしょう。
ただ、ネガティブは悪、なにがなんでもポジティブという発想で塗り固めるのは危険な気がします。
本当は悲しいのに悲しさに蓋をするなどの先には幸せはなく、時と場合によってはつらさや悲しさを消化するネガティブ期間が必要なときもあるでしょう。
幸せのためには、人生を総合的に見て楽観であればいいと思います。意志が働かないときは思い切って悲観に浸り、また楽観に戻ってこられれば。
アランの幸福論を自分の人生に落とし込んで考えてみて、現時点でたどり着いたミッツ・ケールちゃんなりの幸せについての結論はこんな感じです。
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