ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★世界の哲学者に人生相談#8「憎しみ」

最も根本的な感情は憎しみと愛であると説いたデカルトは、常に心を占める激しさを人間らしさだと考えたのだろうか。
番組をみて考えたことを書きます。良心はどこにあるのかについて迫った思考実験のコーナーもなかなか考えさせられました。

6/7(木)23:00~23:30 Eテレ

「我思う 故に 我 悩みあり」
現代の私たちが抱えるお悩みを、
哲学者の思想や名言を要約した「お考え」で解決する人生相談室


目次

人を憎む気持ち

 今回は、”憎しみ”にまつわるお悩みからスタート。
母が亡くなってすぐ母の再婚相手が彼女を作った。心が狭いと思いつつもどうしても許せず、忘れたいのに憎しみすら感じる。この感情をどうすれば

 「憎しみは愛情の裏返し」とはよく言いますが、お母さんを介してとはいえ一時は身内だった人。 愛情とまではいかなくとも親しみでつながっていた時期を経ているからこそ、裏切りのように感じてしまうのでしょうね。
 再婚相手ということは相談者の実の父親ではないでしょうから、お母さんの生前とは関係性が変わってしまうのは多少、仕方がないのかなという気もしますが。

デカルトに聞く、根本的な感情との付き合い方

 お悩みの文面からは、相手をどうにかしたいというより、自分の憎しみという感情をどうすればいいかと悩んでいる様子が伝わってきます。 憎いと感じる相手が自分の思い通り動いてくれるなんてことはほとんど不可能で、憎いと感じる自分の心の持ちようをなんとかするしかないのが現実。 これはいかにも、哲学が役立ちそうな場面。

 というわけで登場したのは、憎しみをはじめとする感情を徹底的に分析した近代哲学の父・デカルトです。 「感情の解剖学者」とも呼ばれたらしい。肉体を解剖するのであれば医学ですが、精神を解剖して感情を分析するとなると哲学の出番なんですね。

 デカルトといえば、この番組のキャッチコピーの元にもなっている「我思う、故に我あり」という言葉。 この世界のあらゆるものが本当にあるのか分からないけれど、少なくとも今物事を考えている自分は確実に存在しているという意味で、哲学の言葉の中でも有名なものですね。 を切り離して考える近代的な思想を世に送り出し、アリストテレス以来続いてきた哲学の根本姿勢を変えました。

 元は、理性こそが人間にとって最も大切だと考えていましたが、哲学者として相談を受けるうち、感情にも重きを置くようになり、中でも、憎しみこそが最も根本的な感情であると結論付けたそうです。

方法序説・情念論 (中公文庫)

方法序説・情念論 (中公文庫)

「”憎しみ”と”愛”は表裏であり もともと”同じもの”である」

 そんなデカルトの言葉がこちら。憎しみは対極なように思えるけれど、相手に対して感情が沸き起こるという点では、同じということですね。 本当にどうでもいい人には憎しみすら抱けないと考えると、の反対は憎しみではなく、無関心というのはしっくりきます。
 深く愛していた気持ちが裏切られた場合、どうでもよくなるということは考えにくい。 愛していただけに、思いの熱量はそのままに、方向性だけが憎しみという負の向きに裏返るということは珍しくない話です。

 それなのに、憎しみ真逆であるように感じるのはどうしてでしょう。 人生において愛情憎しみというものに遭遇する機会が少ないからか、より身近な感情である好き嫌い拡張して考えるためではないかと、ミッツ・ケールちゃんは考えます。 つまり、とんでもなく好き=愛情、とんでもなく嫌い=憎しみ、というように好き嫌いの度合いが大きくなったものが愛情と憎しみだと理解しがちなのではないかということです。

 でも、憎しみ嫌いは、性質が異なるものなのではないでしょうか。 嫌いという気持ちが、相手が目の前にいるときだけ感じるマイナスの感情である一方で、相手と対峙していないときも絶えず負の感情が胸中を渦巻いている状態が憎しみだと思います。
 逆に、どれだけ相手の存在が自分の心を占めているかを基準に考えたら、よく議論される「好きの境はどこか」という問いの答えも明確になりそう。

 私たちは生きていく中でいろいろな人や物ごとに出会い、関係性を育んでいく過程で、好感度=好きと感じる度合い数直線を頭に思い描いて、自分や他人の気持ちを推し量っているように思えます。 その数直線の中心点・好きでも嫌いでもない普通を境に、右にいくほど好き、左にいくほど嫌い(好きでない)の度合いが大きくなるイメージです。
 憎しみや愛というのは、この数直線の延長線上にあるように早合点しがちだけど、実は、この好き嫌いグラフでは図示できない領域である気がしています。

良い悪いを誰かに確かめながら生きている

 今回は、思考実験のコーナーもなかなか興味深いものでした。テーマは「良心」。 「夢をかなえるための大事な道すがら、目の前に倒れている人がいたら?」という設問です。

 人間って基本は自分の幸せを追いながら生きているものだと思います。 幸せになるために叶えたい夢を優先したいところだけど、目の前の人を見捨てて良いものか。いや、そんな悪いことできない。
 この良い悪いって何にとっての善悪なのか、誰が決めるもの?良心とは?

 「良心」を英語にすると「conscience」。語源的には「共に知る」という意味で、誰かと一緒に、正しさを判断しているということを指しているそうです。
 つまり、自分のストレートな行動がそれでいいのかをジャッジする存在が、自分の心の中にいるということですよね。
 それも、「世間一般の常識からしたらこんな行動許されない」とか「おてんとさまに顔向けできない」とか、一見、外にある基準で判断しているように見えるけれど、外のシンボルを借りているだけで「自分の信じる正しさの中では悪いことだ」という自分の価値観が底にある
 「良心の呵責に耐えかねて」という表現はよくありますが、これも、自分が良くない(と思える)行動をしてしまって、自分後悔しているわけで、行動したのも責めるのも自分なんですよね。誰かに責められているわけではない。

 ある考え方では”良いもの”が、別の考え方では”悪いもの”だということ、意外とあると思っています。 善悪を決める一律の確定した基準があるように社会はふるまっているけれど、この基準って普遍的なものじゃないなあと最近ずっと考えていたんです。

 誰もが、今までの人生で、所属する社会コミュニティ周りの人歴史道徳教育信教慣習などなどに影響を受けて無意識のうちに形成してきた価値観による”良い悪い”の軸自分の中に持っていて、それに自分の行動を照らし合わせながら生きているのが人間なのかなあと、思い当りました。
 利他的に思える行動も、自分の内面が納得するような行動と考えれば、人間はやはりどうしたって自分本位なのかもしれません。

 同じ社会で生きているのであればみんな同じ善悪の価値観を持っていると考えがちだけれど、人それぞれ細部が微妙に違うというのが厄介という気がしています。人に自分の善悪を押し付けることがいさかいの種になってしまうので。
 によって違うということ、さらに時代によっても変わることを忘れず、いつも良いと思う理由・悪いと思う理由を問い直しつつ、内面に持つ価値観をメンテナンスするよう心がけないと、気付けば思ってもいないところに立っているということになりそう。

その悩み、哲学者がすでに答えを出しています

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