ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★世界の哲学者に人生相談#7「死」

自分の理性で考えて感情に収拾をつけることが人間として高尚だとされているけれど、生きる死ぬという生物の宿命を前にしたとき、それがあだになって苦悩を深めるのかもしれないですね。
生まれた意味死んでいく意味をつい考え込んでしまうけれど、答えなんて出ないし、出たように見えても単なる思い込みに過ぎないのでしょう。
「死」を考えると「生」もついてくる。番組を見て考えたことを内容と合わせて書きます。

5/24(木)23:00~23:30 Eテレ

「我思う 故に 我 悩みあり」
現代の私たちが抱えるお悩みを、
哲学者の思想や名言を要約した「お考え」で解決する人生相談室


目次

誰にでも共通する避けがたい「死」というもの

 人生相談として寄せられた中でも、特に多かったという「死」というテーマ。 一口に「死」に関する悩みと言っても、死そのものが怖い、死へ至る過程が怖い、親しい人の死が怖い……いろいろありますね。
 相談の内容は一通りではなく、答える哲学者も数多く登場。盛りだくさんな回でした。

 「重い話題ですね、今までも軽い話題はなかったけど」と司会者。 たしかに、人生に役立つ哲学を扱ってきたこの番組、取り上げられてきたのは孤独自由幸せ、など、「こうすればいいじゃん!」なんていう一言アドバイスでは片付かない、色々な見方のできる大きな問題ばかり。

 ただ、それらと比べても「死」というのは万人に共通するテーマですよね。必ず人は死にます。自分もいつか死ぬし、大切な人を亡くすかもしれない。 画面にずらっと並んだ錚々たる哲学者全員が死について何らかの”お考え”を持っているよう。古今東西みんなが考えてきた普遍的な「死」について考えます。

死への恐怖

最初は、自分が死ぬことに対する恐れを訴えるお悩みです。

・正直死ぬのが怖い。子どものときから死への恐怖に悩まされてきた。この恐怖から解き放たれるには?
・死んだら自分は完全に無くなる、そう考え始めると不安が止まらない。どうすれば。

これらに答える哲学者は、エピクロスハイデガー

我々が存在するとき死は存在せず、死が存在するとき我々は存在しない(エピクロス

 古代ギリシャエピクロスが論じたのは、死とはどういうものか、死んだらどうなるのか、生きている間には分からないことなのに、なぜ今あれこれ想像するのか。本当の死想像の死は違うはず、ということ。
 備えあれば憂いなしともいいますが、私たち人間は往々にして今起こっていない状況を想定しますよね。いざ人生において、その状況が起きたとき、落ち着いて対処できたり素早く収拾がついたりします。
 でも、死については、いざ起こった!自分が死んだときって、当たり前だけど対処する自分はもういないわけです。そう考えれば、貴重な時間を割いて備えること自体がナンセンスですね。

 関連して思い当ったのは、「死んだ後忘れられるのが怖い」や、逆に「死んだ後身辺を詮索されるのが嫌」というよく聞く意見。 どちらも分かるような気もしますが、エピクロスの考えに照らせば、これもナンセンスと言えるかもしれません。
 先日、アンネ・フランクが生前に書き残した性への考えやジョークが明らかになったというニュースがあり、「かわいそう」という声が上がりました。 でもこの「かわいそう」、今生きている自分に置き換えた発言です。恥ずかしいと感じるアンネはもうこの世にはいない。 心情的にはそれでも嫌だな、と思うけれど、その嫌だなという思いはアンネではなく私たちのものだということに気が付きました。
 今の日本でも、死んだ瞬間に人権は失われ、殺人事件の被害者は顔や実名が報道されます。もやもやすることもあるけど、割り切って考えればそういうこと。
 逆に、死んだ後忘れられても覚えていてもらっても、それを悲しんだりありがたがったりする自分はもういないわけです。 死んでしまった人への印象というものは、死んだ当人ではなく、印象を抱く残された人が主体だということだと思います。

 ちなみに、エピクロスは、心が落ち着くこと”快楽”だと説いた哲学者。 快楽と言うと、人間的成長なんかをそっちのけで、非生産的な一時の楽しみに溺れるというようなよくないイメージがありますが、 心の安寧が人生における快楽だと言われればそっちの方がしっくりくるような気もします。
 死んでもいないうちから死に脅かされているのは、まったく快楽とは言えませんね。

死を意識するからこそ人生は輝く(ハイデガー

 時代は流れ20世紀、ハイデガーは、人間とは死へ向かう存在だから、あらかじめ死を覚悟すれば本気で生きられると説きました。 死ありきの人間ということに着目し、人生を死と結び付けて考えた「死の哲学者」です。

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

 いつ死んでも後悔しない人生、というのは座右の銘としてよく聞く言葉。 いつか人生が終わるときがくるという前提があるからこそ、時間は有限であり、今を無駄にしてはいけないという気持ちにもなりますよね。 「時は金なり」などのことわざも、死ぬ運命にある我々だからこそ身に染みる言葉だという気がします。

 よりもの方が作業効率が上がるという話をよく耳にします。 夜更かしすることでいくらでも時間が使えるという油断から、ついつい無駄に過ごしてしまう夜。 一方、朝は出発時間が刻一刻と迫っているから集中できて有意義だという話です。
 時間だけでなく、制限がある方が力を発揮できることって多いですよね。冷蔵庫に食材がこれだけしかないから工夫して組み合わせたら新しい味ができた、とかね。 死へのカウントダウンの中で何かを為そうと奔走する、という人生は、その最たるものかもしれません。

 ただ厄介なのは死がいつなのか前もって分からないこと。”出発時間が知らされない朝”を充実させるために、「死の意識」は欠かせないものなのでしょう。

生への執着

 次なるお悩みは、
生への執着がない。自殺してはいけないっていうけど理由がわからない。人はなぜ生きるのか。

 を考えることで、その逆であるについても疑問が生じますね。死を恐れる=生きたいってことだし、生への執着がない=死んでもいいってことになります。
 でも、死んでもいい=死ぬ、とはつながらないよね。 1つの悩みにまとめられてしまっているけど、生への執着がないということと、進んで命を絶つ、ということは全くの別問題ではないでしょうか。

生きる理由についてはフロム、自殺についてはショーペンハウアーが答えます。

人生の意味がただひとつある それは”生きる行為”そのものである(フロム)

 生きる意味を説いた社会心理学フロム。頭で人生の意味を考える必要はない、生きている行為そのものが意味である、という考えです。

 人間って小賢しくて、ついついこの世に生を受けた意味とか考えちゃうけど、本当は大した意味なんてないのかもしれませんね。 生物には恒常性があり、ほっといたら生き続けるもの。 本能で食事をとって命を繋ぐ一方で、理性ではなぜ生きるのか悩み続け、答えが出ないままに惰性で生きるというのは仕方がないのでは。
 人間も動物だと考えれば、フロムの言葉はしっくりくるように思えました。意味を考えすぎるのは人間ならではの弱点と言えるかも。

 生きる意味について強いて言うなら、子どもが生まれたり、自分を頼りにしてくれる人がいたり、社会での役割や責任ができたとき明確になるものだと思います。
 家族を持つことやコミュニティなどの社会的活動は、本能が向かわせるものでもあります。 ライフステージを進ませるうちに「生きる意味」を獲得させることで、本能と一致するよう人生に組み込まれているようにも思えてきました。

自殺は真実の救済にならない(ショーペンハウアー

 一方、ショーペンハウアーは、自殺について哲学で考えた先駆者。18世紀に自殺に関する論文を書き、生の哲学を説きました。
 人が苦悩から抜け出そうともがいている状態を、心の手術が行われていると表現。心の問題に直面することは大変だけど、終わればその問題は取り除かれます。
 自殺とはこの手術に失敗することであり、もう少しで得られるはずだった真の救済を投げ捨てることになると言います。

 人が自殺という道を選ぶのは、目の前の苦しみに立ち向かうことを諦めたとき。救済してあげたかった自分を見捨てて逃避するということなのかなと。
 死ぬ理由がないからなんとなく生きている⇒積極的に死を選ぶ、という移行はかなり大きなことだと思います。

 人生は、心の手術の連続ですね。治ったと思ってもまたどこかが悪くなる=悩み続ける。まさにこの番組のキャッチコピー「我思う故に我悩みあり」だなあ。

愛する人との死別

 さて、最後のお悩みは、
将来を誓い合った最愛の相手がある日突然亡くなる経験をした。悲しみや後悔が重く今でもつらい。

 自分の死については、いざ死んでしまったら悲しさを感じる自分が既にいない、ということを最初の方で述べました。 ということは、死に対して深い悲しみを覚えるのは、自分よりも身近な他人だということになりますよね。なにせ死をみとった後も、残された人は生き続けるのだから。

 ある研究によって導き出された「ストレスランキング」でも、親しい人の死が1~3位を占めています。 ミッツ・ケールちゃんは予備校時代、「受験に落ちたら人生終わりとか言うけど、ストレスランキングでは全然上位じゃないから落ち込む必要ないよ」なんていう微妙な励ましを受けたことがありますが。確かにこのランキングで言うなら、失業とか自分の病気とかこの世の大体の悩みをはるかに上回る事態。どうすればいいかと相談されて、何か答えはあるのか。

後悔の念の起るのは 自己の力を信じ過ぎるからである(西田幾多郎

 明治から戦前にかけて活躍した日本人、西田幾多郎の登場です。西洋の哲学と日本の思想を融合させ、日本哲学の父と呼ばれる哲学者。

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

我が子8人中5人を病気で亡くした悲哀から、哲学に励んだといいます。

 1つ目の言葉がこちら。身近な人を失った後「もっとこうしてあげればよかった」という後悔が襲い、悲しみに拍車がかかる。 そんな状況へ投げかけられた達観とも思える言葉ですね。自身も経験しているからこその達観なのでしょう。

 これは、彼の中心的な概念である純粋経験(=ありのままに経験する)に結び付いているもの。 人間は頭を使ってしまうがために、起こった出来事の中で比較してしまい苦悩する。あれこれ考えず、悲しみをそのまま受け止めなさいという思いが込められています。

 フロムが「人生の意味は”生きる行為”そのものである」と説いた発想に似ている気がします。 人間は他の動物と比べて賢く進化したけれど、生き死にに関しては頭で考えても仕方がないということでしょうね。 生物であることからは離れられないのに、自己の力でなんとかしようというのは傲慢だという字面ながら、その奥には、自身と同じく死別に苦しむ人に向けた「責任を感じることはないよ」という慰めが含まれているように感じました。

折にふれ物に感じて思い出すのがせめてもの慰藉 死者に対しての心づくしである(同)

 西田幾多郎2つ目の言葉です。 無理に忘れるのではなく、心で思い出すことが、先立った愛する人への弔いになるという考え。
 辛いことをありのままに受け入れていいという、純粋経験に根差された発想だということがよく分かります。

 お墓詣りとか、仏壇に手を合わたり写真に話しかけたり。亡くなった人への思いを反芻することは、残された生きている人のためにもなるのでしょう。 10年ほど前、一世を風靡した千の風になって」は、身の回りの自然に愛する人を投影する歌詞が多くの人の心を打ちました。

 あまりにありふれていて、なのに、人生最大のストレスとも言える死別。その悲しみを癒すために、詩が紡がれ、歌われ、哲学が説かれました。 死ぬことは誰にでも訪れる運命ですが、それを乗り越えるため理性を工夫してきた結晶が、現代の私たちが触れる哲学なのでしょう。



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