ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

「トロッコ問題は授業に不適切」という人にこそトロッコ問題を

 5人を見殺しにするか、1人を犠牲にするか――有名な思考実験のひとつ「ロッコ問題」を授業で扱う是非について議論が持ち上がっている。
 公立小中学校で心理教育として行われた授業について、保護者から疑問の声が上がり、校長が謝罪したというのだ。

headlines.yahoo.co.jp

正解のない問題に向き合う重要性

 模範解答の用意されている問題を解くことが、現在の日本では教育の主流となっている。

 しかし現実世界は、答えが一つには定まらない、割り切れないことの連続である。

 ある問題に対して絶対的な正解は存在せず、どちらの選択肢を選んでも何かしらの被害が出るという事態は、社会に出れば珍しくない。
 どちらを選ぼうとも、選んだ人は結果的に責められる。しかし、それでも考え抜いて決断を下さなければならない。

 大切なのは、どちらを選んだかどちらが正解か、ではないのだ。

 仮に自分の選択を責められたとしても、苦渋の決断ながら論理的に考え抜いた結果「こういう理由でこちらを選んだ」と説明できることが求められる。

 正解のない問題を前に、論理的に思考を重ねて結論を導くという思考訓練は、教科書偏重の今だからこそ貴重な時間なのだ。

100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか

100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか

論点は、教育の「揺るがなさ」

 思考実験とはそもそも、簡単に答えの出る類のものではない。

 想定の中とはいえ誰かが犠牲になったり、道徳的なジレンマに苛まれることもある。

 模範解答に向かって一直線に進めば良い教科書の問題とは趣向がまったく異なるのだ。
 それでも、その意義は確かにある。正解を追うだけの学習では人間として思考停止することになるからだ。

 普段教育に携わっていない保護者が「子どもが傷つくのではないか」と疑問を持ったときに、毅然たる態度でその意義を説明することも、教育者の責務だと考える。

 その点で、今回の騒動で着目すべきなのは「ロッコ問題は授業に適切か」ではない。
是非について意見が割れる授業内容でも意義を説明し実施できる教育現場か」ということこそ、真の論点であるべきだ。

思考実験の本質を理解していない教育現場

 厳しいことを言えば、「トロッコ問題を題材にした授業は不適切だ」という批判に対し、こういう意図で必要な教育として選んだのだと説明できなかった学校は、トロッコ問題の本質を理解していないとも言える。

――5人の作業員に突っ込むトロッコを方向転換せず「なぜ見殺しにしたのか」と非難されたときに、どういう理由でその行動に踏み切ったと説明するのか。

 これを、今回の騒動に置き換えれば、

不安をそそる可能性のあるトロッコ問題を授業で実施して「なぜそんな授業をしたのか」と非難されたときに、どういう理由で授業を行ったと説明するのか――だ。

 理解を求めようともせず謝罪した時点で、「トロッコ問題は適切か否か」という二者択一の問題には「不適切」という解答があり、自分たち(学校側)がそれに不正解したと言っているも同然なのではないか。

二者択一の外へ

 正解のない問題にどう立ち向かうかというのが、思考実験の肝だ。
 子どもにやらせる以前に、教える側の思慮覚悟が足りていなかったと言わざるを得ない。

 短絡的に「とにかく不適切」だとして譲らない人、それを認めて安易に謝罪する人にこそ、ロッコ問題をはじめとした思考実験が必要にちがいない。

 確実に正しくて非難されることのない教育しか施せないとしたら、子どもたちの思考を育む役割であるはずの教育が完全に思考停止に陥っていることになる。

 正解か間違いか善か悪か二者択一のみで育った子どもたちが将来かたち作る社会は、どんなものだろう。想像するだけでおぞましい。

 少し変わったことをすれば「不適切なのでは」「不謹慎なのでは」と叩かれるようになった昨今、あながち極端な想定ではないはずだ。

 目先の反対意見に屈することなく、柔軟な思考をできる子どもを長い目で育てられる健全な教育現場、育児環境が今、求められている。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


--他にこんな記事も書いています--
inusarukizi.hatenablog.cominusarukizi.hatenablog.com


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「無償の愛」は相手という人間を無視した搾取―書評★森があふれる(彩瀬まる)

 夫婦やパートナーというのは多くの場合、もっとも近い存在だ。

 例えば20代で結婚して80代まで一人の伴侶と添い遂げたとしたら、60年もの時間を共に過ごすことになる。これは、20代で自立したとして、親と過ごした時間の3倍もの長さに相当する。

 ただ、人生でそれほどの時を共にしたとしても、どれほど心を通い合わせたとしても、冷たい言い方をするならば他人。そこにあるのは夫婦幻想かもしれない。

 近くにいるから見えていないこと、ないがしろにしてしまっていることは、表面上うまくいっている2人にも潜んでいる。

 世の中にあふれている夫婦という形。その奥には何があるのか。そんなことを考えるきっかけになる小説がこちら。

森があふれる

森があふれる

秘めた思いが発芽

 琉生(るい)は、作家である夫・徹也と2人で暮らす主婦。
夫は、自分を題材にした小説で脚光を浴びるようになった。

 子どもは授からず、妻である自分のことを顧みない夫との夫婦生活に琉生はどこか不満を覚えつつも、夫の仕事のためにと甘んじて犠牲になってきた。

 小説に書かれることで自分というものを奪われてきた琉生だったが、ある日、飲み込んだ植物の種が体から発芽しはじめる。

 徹也が用意させた2階の寝室の水槽の中に置かれた琉生は日を追うごとに、枝葉を伸ばしてやがて広大なとなっていく。

 作家の家の中に出現した森。その鬱蒼とした緑の世界に触れることで、徹也だけでなく編集者、その愛人までもが人生の意味を問い直すことになる。

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「無償の愛」は犠牲の下に成る

 フィクションでよく使われるフレーズ、無償の愛という言葉。決して何者も敵わない、大変に尊いもののように思える。

 しかし、本当にそうなのだろうか。 愛が無条件に、絶対的にすばらしいものだという発想は、思考停止だとは考えられないだろうか。

 無償という言葉は一種の搾取にもなりうる。
「愛を注ぎ込む人」自身が抱える事情や、愛以外の思い、それら全てを押し殺した結果、得られるのが無償の愛なのである。

 愛という響きの良さの裏で、一人の人格が犠牲になり人生を搾取され、理性は追い出される。
そうしてできた世界は愛の理想郷などではなく、一種のディストピアとも言える。

「愛しているのなら、どんな無理難題も引き受けてくれるはず。自分を犠牲にしてでも尽くしてくれるはず。」

 このように身近で大切な人を消費して成り立っている人間の形のおぞましさが、本作には詰め込まれている。

向き合わなかったツケが森になる

 私たちは愛を渇望するあまり、大切な人の本質を踏みつけてしまっているのかもしれない。
 しかし、無償の愛というフィルターを通して見えるのは、相手のでしかない。

 そのときがくるまでは、相手の表面には愛しか見えない。そう望んだのは自分自身だし、相手も限界がくるまでは他は捨てて愛に徹しているのだから。

 それでも、相手の心の内には違和感が育まれていく。それが積もり積もったある日発芽し、やがてあふれんばかりのとなる。

 愛の心地よさに身を委ね、与えられるばかりで、目の前の相手が一人の人間だということから目をそらしてきた結果、真実として表出するものが森なのだ。

森に入るとき

 露呈した真実を前に、家を間違えたのではないか。そんな思いに駆られる人物も本作には登場する。
 しかし正しい家などどこにもない。正しい家だと思っていたものは幻想であり、そこに生きていた自分のエゴだったのだから。

 身近な家族や愛する人をないがしろにして、仕事や人生をなんとかやりくりしていても、いつか破綻の時がくる。
 沈黙の反撃を受けた直後は「正しい家」探しに救いの手を求めてしまうかもしれない。

 しかしそれでは根本的に解決はしない。
私たちはその先の人生のどこかで、森に入らなければならない。
 大切な人の内面と真摯に向き合い、本来そうするべきだったように大切に扱わねばならないのだ。

おまけの一冊

 人が生きていく上で感じる思いというものは、目には見えない。

最初はひっそりと芽吹き、やがて枝葉を伸ばして成長していくというものは、精神の挙動を見える形で追うために優れたモチーフだと思う。
 行き着く先の見えない自然というものは、どこまでも私たちの想像をかき立てる。

 に何を重ねあわせるのか、そういう観点ではこちらの短編集の表題作もあわせておすすめしたい。

白昼夢の森の少女

白昼夢の森の少女


日常的に”火事場”を生きる火事場泥棒

被災地の発電機が盗まれた

 台風で広範囲に停電が続く被災地で、信号機を動かすために設置された非常用発電機が相次いで盗まれている。

 長く続く停電で消耗する被災地でせめてもの助けとなるであろう発電機が盗まれたというのは、信じがたい事件だ。
 窃盗犯は、これぞ絵に描いたような火事場泥棒であり、大変に罪深いということは疑いようもない。

 ……のだが、このような火事場泥棒たちは果たして、本当にただの加害者なのだろうか。
今回の事件を機に、火事場泥棒が生まれる背景について考えてみたい。

いつも非常事態の人たち

 火事場泥棒という言葉が示す火事場とは、言わずもがな火事のような突発的な事態が起きて、人々が混乱の渦に巻き込まれている状態のことである。

 こんな非常事態に盗みを働くなんて、人の心があるのか――。多くの人はそう感じるに違いない。 実際、過去の判例を見ても、火事場泥棒は通常の窃盗より罪が重いと判断されていることが多い。

 ただ、この「非常事態」という認定は誰が下したものだろう。 普段は平穏な日常を過ごしている私たちによるものだ。
 「日常」に対する言葉が「非常」なのだから、当然と言えば当然だが。

 火事場泥棒への憎しみを少しの間抑えて考えてみてほしいのは、日常が平穏でない人たちが、私たちと同じ社会にいるのではないかということ。
 日ごろより社会から締め出されてきて、常に危機的状況で生き延びている人たち。彼らが苦難の果てに成り下がるのが、火事場泥棒という存在だと考えることができるのではないだろうか。

「血も涙もない」は苦境の裏返し

 今日明日の生活にも困るような人たちが存在していることは知識として知っていても、私たちが直接目にすることはほとんどない。同じ地域に住んでいても違う世界を生きているのだから。

 そのような普段は意識することのない恒常的な危機にある人たちとの接触が、私たち自身も災害という危機的状況に陥ったときに果たされたというだけのことなのだ。

――非常事態を狙って悪事を働く人間というのは、本人が慢性的な非常事態に置かれている。
――人の弱みにつけこむことのできる人間というのは、本人が誰よりも弱い存在である。

 普段の生活に何の不自由もしていない人は、他人のピンチに遭遇したとしても、火事場泥棒にはならないのではないか。

 火事場泥棒として世間の注目を浴びる彼らは単なる加害者ではなく、日常的に”火事場”を生きている被害者という側面もあるのかもしれない。

 もちろん、だからといって罪が問われないというものではない。 しかし、世間から許されないことも承知の上で、背に腹は代えられないと追い詰められた末の行動が、世の犯罪なのだとしたら。

 犯罪というものを見る目が少し変わってくるように思える。

悪に人はなぜ染まるのか

 平成という時代は戦争もなく平和な時代だったと言われる一方で、社会の片隅には明日もわからぬ運命の人たちが潜んでいる。
 そのような私たちにとって縁遠い世界を知る上で、先に発売された小説「Blue(ブルー)」(葉真中顕)をおすすめしたい。

Blue

Blue

  • 作者:顕, 葉真中
  • 発売日: 2019/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 法に照らせば極悪人でも、社会の輪からはずれた弱者の中ではヒーローということもありうる。
 罪を重ね手を汚す彼らは社会の被害者であり、救済されるための選択肢に辿りつくことさえできない場所に追いやられているという実態がある。

 福祉を必要とする人ほど、福祉から離れていってしまうという問題は最近、少しずつ取り沙汰されるようになってきた。
 令和を迎えた今もこのようなケースはそこらに埋もれているはず。

 誰かを表面だけ見て「自業自得」断罪してしまう罪深さを思い知らされる。
 「殺人鬼」「犯罪者」と括られてしまう彼らの本質はどこにあるのか。変わりゆく印象を味わいつつ、社会の全体像に思いを馳せてほしい。


水墨画でひも解く「美しさとは」★書評「線は、僕を描く」砥上裕將

 水墨画と聞いて、どんなイメージを持つだろうか。

なんだか地味、お年寄りが趣味にするもの、白黒でどれも同じに見える……
そんな印象を持つ人がほとんどだろう。

 水墨画雪舟、ぐらいのワードは、歴史の授業で聞いたけれど、特に興味もないなぁ……。

そう感じた人にこそ手に取ってほしい、水墨画に対する固定観念を覆す小説が今、話題になっている。

線は、僕を描く

線は、僕を描く

水墨画×青春物語

 主人公の霜介は大学生。両親を交通事故で失い、その喪失感から日々を無為に過ごしている。
人生の意味がわからなくなり、真っ白になった霜介がひょんなことから知り合ったのは水墨画だった。

霜介の審美眼に光るものを感じ、内弟子にとった巨匠
突然現れた霜介が自分よりも目をかけられていることが面白くない巨匠の孫娘
門下で日々、精進する兄弟子たち。

 水墨画を通じて育まれる人間関係の中で、自分の殻の中に閉じこもっていた霜介が自分を取り戻していくまでのお話だ。

 題材は確かに水墨画なのだが、本作は大学生を主人公とした青春物語に仕上がっている。

線と僕の関係

 タイトルを見て「僕は、線を描く」の間違いじゃないの?と思うかもしれない。
でも間違いなく、本作のタイトルは「線は、僕を描く」である。

…このタイトルがどのような意味を持つのか。

…傷ついた霜介はどう過去に折り合いをつけて、どんなところに行き着くのか。

真っ白になった霜介に、どんな色がのせられていくのか。

 一見不思議なタイトルを心の隅に置きつつ、読んでほしい。

匂い立つ墨の香り

 本作の魅力はなんといっても、水墨画を描く場面の圧倒的な瑞々しさだ。

 水墨画でよくモチーフにされるのは、植物自然の風景など。
自然界に悠然とたたずむ”命”から何ごとかを感じとり、一幅の水墨画に昇華させていく営みが、実直に描かれている。

 描き手である霜介の内面の変化も織り交ぜながら、が一本一本引かれていく様は圧巻である。
墨の香り、筆が紙を這うまでもが、聞こえてくるような錯覚に陥る。

 黒一色の濃淡で描き上げられた一幅の水墨画に、何が押し込められているのか。
この世の美しさというものに、描き手の精神性がどのように掛け合わさって、一幅の水墨画となるのか。

 そこには、普段何気なく使う「美しい」という言葉が真に意味するものを、じっくりと噛みしめられる世界が広がっている。
 活字で表現されているのが信じられないほどの優美で壮大な芸術空間を垣間見た。

現役・水墨画家の小説処女作

 著者の砥上裕將さんは本作「線は、僕を描く」がデビュー作にして、メフィスト賞を受賞することにもなった。
 小説家としてデビューする以前に水墨画であるそうだ。

 実際に水墨画に取り組む著者による作品だけあって、水墨画を制作する場面の描写には息を呑む。

 いつのまにか水墨画の世界に巻き込まれた主人公が、秘めた才能を開花させるという筋書きは見慣れた設定と展開であり、大学生の仲間たちのキャラクター造形には少々の甘さも感じる。

 それでも、たとえ敏腕作家が水墨画について取材を尽くして小説にしたとしても、この境地には達さないだろう。
 そう思わせてくれる秀作であることは間違いない。


 人気の声を受けて、週刊少年マガジンコミカライズもされている。
小説を読んだ人も、水墨画のシーンがどのように漫画になっているのか比べてみてはいかが。

線は、僕を描く

線は、僕を描く


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