人は誰しも、生きていく上で大事にしているものがある。
家族や大切な人とのふれあいだったり、日々取り組んでいる仕事や趣味を挙げる人もいる。はたまた「私はこういう人間だ」という自己評価や誇りといった精神的な実績を大切にしている人も少なくないだろう。
半生をかけて信じてきた拠り所が揺らぐ瞬間、人は何を思うのだろうか。
そんな人類共通とも言える問いを投げかける小説を紹介したい。
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/05/01
- メディア: 文庫
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主人公はイギリスの伝統ある屋敷で長年、執事の道を追求し続けてきたスティーブンス。
二つの大戦に揉まれた激動の時代、重要な外交会議が数多く開かれる邸内で、主人であるダーリントン卿の面目に恥じないもてなしを追求してきた。
今では新興のアメリカ人の手に渡ってしまった屋敷。
かつての使用人たちの多くが去る中で、今も変わらず身を置くスティーブンスが、束の間の休暇で旅に出たことをきっかけに、かつての誇り高い職務の思い出を振り返る。
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロによる本作は、イギリス最大の文学賞にも選ばれている。
輝かしい追憶に翳り差す
旅先の美しい田園風景の合間に描かれる、スティーブンスの追憶は同様に美しい。……のだが、途中からどこか不穏な雰囲気が漂い始める。
スティーブンスが絶対的な敬慕を寄せるダーリントン卿は、真の英雄たる人物だったのか。
執事の鑑だった亡き父との別れ、淡い想いを寄せる女中頭との別れ。職務に全てを捧げることで、大切なものが犠牲になったのではなかったか。
人生の煌めきが日の名残りと共に失われつつある晩年、一番正しい道だと疑うことなく突き進んできた過去に翳りが差す瞬間が訪れる。
個人単位のパラダイムシフト
社会や文化について論じる上で、よく持ち出される概念の一つにパラダイムシフトというものがある。
ある時代において当然のことと考えられていた認識や思想、価値観などが劇的に変化する局面のことだ。
「日の名残り」を貫くテーマは、個人単位のパラダイムシフトとでも言ったところだろうか。
スティーブンスは執事という特殊な職業であり、言うまでもなく、現代を生きる一般市民にとっては縁遠い人物である。
しかし、そこに描かれる心象風景は、紛れもなく私たちにも身に覚えのあるものなのだ。
往々にして思い出は美化され、輝きを増していくもの。
でも、その本当の形ってどんな手触りだっただろう。案外、思い出せないものだ。
だからこそ人間は落ち込みすぎず生き延びていけるともいえる。
向き合うのは恐ろしくもあるけれど、私たちはどこかで向き合わなければならないのかもしれない。大切なものが手からこぼれ落ちないうちに。
疑似体験できる構成の妙
スティーブンスの直面するパラダイムシフトを、読者が効果的に味わうことができるのは、著者カズオ・イシグロの類まれな構成力があってのことだ。
情景描写、心理描写が精密なのはもちろんだが、長い時間を巧みに扱うデザイン力こそが、ノーベル文学賞受賞の所以だと私は思う。
時系列を崩したり、1つの出来事をあえて分割して小出しにしたりと、自由自在の構成。それでも、長年にわたるスティーブンスの身辺事情がすんなりと読み手の中に入ってくる。
それどころか、思い出を聞いている側のはずなのに「あぁそんなこともあったな」と自分のことのように振り返っているような不思議な感覚さえ味わうことができる。
あくまで一人語りを貫き、最後まで女中頭をはじめとする思い出の国の人たちが直接出てこないのもさすがである。
個人の記憶の中で錯綜する精神性を追求する上では、客観的な判断材料を与える他者の登場は野暮ともいえる。
答え合わせは彼自身の心の中で完結しているのだ。
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- 作者: Kazuo Ishiguro
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