目を塞ぎたくなるような児童虐待が後を絶たない。
ひとつの虐待がニュースに上がり、その記憶が薄れないうちに、またひとつ別の虐待が起きる。
親からの暴力によって命が奪われた子どもたち、重い傷を負った子どもたち。その顛末は、悲惨と言うよりほかない。
中でも、昨年3月に起き、現在も公判中の東京・目黒区での虐待死はその惨たらしさから、いまだに世間を騒がせている。
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20191003/1000037232.htmlwww3.nhk.or.jp
褒められる娘・けなされる父
今日の裁判では、虐待死した結愛ちゃん(当時5歳)の父親が虐待に至った心理を述べた。
その証言の中で印象的だったのが、
「結愛は褒められるが、自分はけなされるだけだ」
という言葉。
その裏には、自分が認められない苛立ちと、娘への感情転嫁が見え隠れする。
これまでも裁判の動向を窺ってきたが、ようやく虐待する側の事情が見えてきたように思う。
罪のない子どもに対して父親がやったことは、到底許しがたい。
しかし、その悪の根源は、父親自身の人生の満たされなさやストレスにあるようだ。
大人の満たされなさが、「しつけ」という大義名分で、たまたまそこにいる子どもにぶつけられるという構図。
これは、世に蔓延する虐待の多くに共通するものなのではないだろうか。
生き物の死にざま
ここで、人間社会の親子虐待を考える上で、ヒト以外の生き物の子育てに注目してみよう。
農学博士による一冊のエッセイを紹介したい。
どんな生き物も、厳しい自然の下で必死に生きている。そして、生きる先には死が待ち受ける。
彼らがどのように生きてどのように死んでいくのか。自然の儚さを滲ませながら、多様な生き物の命のかたちが描かれている。
中でもたびたび焦点が当たるのが、生き物たちの親子のかたちだ。
どんな生き物でも繁殖し、次の世代を残して死んでいく。親と子の関係性というのは、ヒトだけでなく地球上に不変なものなのだ。
作中で著者は、「自然界で子育てという行為は、子どもを守る強さを持つ生き物だけに許された特権」だと述べている。
例えば昆虫の多くは自然界で弱い存在であり、子どもを守ろうとしても親ごと食べられてしまう。そのため卵を産みっぱなしにせざるを得ない。
これを人間社会に置き換えると、どうなるだろう。
子どもに暴力を振るう親、ネグレクトする親や養育費を渡さない親など社会で問題になっている大人たち――。彼らは、食物連鎖の上流にいるヒトでありながら子どもを守る強さを持たない個体といえるのではないか。
結果的な悪ばかりが目につくが、自分だけで精一杯な人間界の弱い存在。それが虐待親、毒親の正体なのかもしれない。
たかが八つ当たり、されど八つ当たり
ここまで考えてきて提示したいのは、虐待の根本が身勝手な「八つ当たり」だということだ。
日常生活で満たされない思い、仕事や人間関係のストレスを、近くにいる無関係な人にぶつける「八つ当たり」。
相手が大人であっても八つ当たりされるというのは極めて厄介なことだ。
その矛先が、子どもに向いたとしたら? 生死に関わることになる。
問題は、その虐待=八つ当たり に勤しむ大人とは、前述したとおり人間界の弱い存在だということである。
いくら自分が満たされないからといって、何の罪もない子どもにその捌け口を見出すことは許されない。
しかし限界まで行ってしまった人間に、言葉で言って聞かせたところで、即座にあたたかい親心を取り戻させるのはそう簡単なことではない。
社会で育てる生きざま
結局、ストレスを自己処理できない大人からは、一刻も早く子どもを引き離す。
虐待を防ぐためにできることは、それぐらいかもしれない。
自然界で生きる昆虫や他の生き物と違って、ヒトの子どもは養育者なしでは生きていくのは困難だ。
このことが、虐待を取り巻く事情をより複雑にしている。
虐待しつつもどこかで親としての責任を捨てきれず、子どもを手放せない。
でもそれでは何も変わらずストレスは消えないままで、親としての重圧からまた虐待に走る。
虐待は確かに悪だが、それに携わる親たちにも、複雑な思考が絡んでいる。
一方、育てられない事情の親の肩代わりをする社会を形成できるという点でも、私たちは他の生き物と大きく異なる。
子どもを育てる余裕と理性をなくした親が、子どもを手放せるような仕組みを作ること。
それこそが、私たち人間に期待される生きざまなのではないだろうか。
- 作者:友田 明美
- 発売日: 2017/08/08
- メディア: 新書