手に入れようとするもの、失われていくもの。変化するものにばかり目を向けがちで、なんでもない日々の実感を大切にするって難しい。
向上心や地道な努力は素晴らしいけれど、将来のために今は犠牲になってもいいなんて極端なことになる前に一回立ち止まるべきかもしれない。
「無為」「足るを知る」など、なんとなく知っているけど深く考えたことがなかった老子の格言が現代にどう当てはまるのか考えてみました。
5/10(木)23:00~23:30 Eテレ
「我思う 故に 我 悩みあり」
現代の私たちが抱えるお悩みを、
哲学者の思想や名言を要約した「お考え」で解決する人生相談室
目次
地道にこなす毎日、達成感ってどこにあるの
今回取り上げられたのは、主婦のお悩み。
家事で一日が終わる毎日。妻として母として頑張るほど私の人生ってなんなんだろうと虚しくなる
ルーティンだけで終わってしまった1日は確かに虚しい。主婦に限らず会社員でも学生でも、何かしら責任を持って目の前の物事をこなしている人みんなに共通する思いでしょうね。
明確に「今日はこれができるようになった!」っていう達成感が毎日あればいいけれど、地道な努力の日々ではなかなか難しい。
変化がないというのは安定しているということである意味恵まれているとも考えられますが、充実感を抱いて1日を気持ちよく終えるにはどうすればいいのでしょうか。
老子は架空の人物?
このお悩みに対するアドバイザーは中国から、老子。
- 作者: 老子,蜂屋邦夫
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孔子と並んで広く知られる存在ですね。毎週マイナーな哲学者が多い中で哲学初心者のミッツ・ケールちゃんでも知っている名前が出てきました。
と思ったら、本当にいたかどうか分からない謎の人物だそう。肖像画や石像が作られてきた中で、標準肖像画はなんとつい最近2009年に描かれたもの。
架空の存在かもしれないなんて驚きましたが、これだけあやふやな存在なのに、名前と思想を現代に残していることは逆にすごいかもしれない。 紀元前の人物とされていて肖像画などが残っていないのは当然のように思える一方、教えは伝わっているわけですよね。
実存しなかったとすれば、わけあって名前を出せない別の誰か(時代的に女性とか)が老子というペンネームで活動したのか、複数人の名もなき哲学者たちが考えを結集して「チーム老子」を作ったか。はたまた民間人の間で確かめあってきたアイデアをシンボル「老子」を旗印にまとめたか。あっ、孔子とか他の哲学者が別名義で、自分の他の思想と折り合いの悪いものを発表したのかも。
でもやっぱり、普通に存在して確実な記録が残っていないだけかも。
いろいろ妄想しちゃったけれど、老子がいたかいなかったかは定かでないにしても、”老子の思想”が現代にあることは確か。 文明や価値観が大きく変わり続けた2000年以上もの間、どの時代の人にも支持されてきたのでしょう。現代のお悩みもきっと解決できるはず!
有言実行より無言実行
老子のお考え、1つめは「無為」です。作為すること無くありのままという意味のことば。
当時は、急激に社会構造が変わり、始まった競争社会に生きにくさを感じる人が増えた時代。
目標をなしとげて味わう達成感を求めたり、成功している他人を見て嫉妬したり、何かを為そうという欲に支配され消耗する人の姿を見て、
幸せになるためにはありのままに生きなさい、と説きました。
現代も相変わらずの競争社会。
競争という時点で相手がいるもので、知らず知らずのうちに他人と比較して相対的な幸せを重視していますよね。
人生の成功や幸せと言えば、みんながあっと驚くような仕事を成し遂げて世の中から承認され、自分でも「俺はこれをやったぞ」という達成感をもとに輝かしいアイデンティティを作り上げるもの。
そんな競争社会での幸せを目指す私たちは、「こんな人間になりたい」と夢を描き、「そのためにこれをやり遂げる」と計画し、努力を重ねて完遂することで人間的な成長を得ようと試みます。
対して、「無為」という言葉は、「無為な毎日を送る」など、だらしないとか向上心がないとか悪い意味で使うことが多い。老子は堕落した人生を勧めているのか!?と思いかけましたが、老子が理想とする「ありのまま」とは何なのか考えてみます。
競争社会になる前の時代、人々はどんな人生を送っていたのでしょうか。競争を勝ち抜くという発想がないからといって何もせずだらけていた、なんてことはないでしょう。社会がむちゃくちゃにならず成立しているのだから。大そうなことは考えず目の前のことを淡々とこなし、日々の暮らしの中で喜びを得ていたのではないかと考えます。
「目の前のことを淡々と」と書いたところで、これって、冒頭のお悩み「毎日ルーティンをこなし続ける毎日」に近いのではないかということに気が付きました。同じく日々を実直に過ごしていても虚しさを感じるか充実するかの違いはどこにあるのか。それは、実行する前に”大そうなこと”を思い描いているかどうかだと言えそうです。
そして、この”大そうなこと”とは、世間という他人の集まりと比較して描いたものであることが多い。なんといっても価値観が競争社会だから。
老子の説く無為、ありのまま、というのは、つまり、他人に惑わされすぎず自分の人生を味わえ、ということなのではないでしょうか。
老子の世から比べると、理想が均質化されたであろう現代。私たちは知らず知らずのうちに「みんなと同じ方向で上を目指す」価値観にまみれているのでしょう。そんな価値観の下で作為した通りに生きていっても消耗するばかり。有言実行が良いとされる世の中だけど、心の内でさえも無言実行を貫き、理想を追わずに生きられたなら確かに幸せなのかもしれません。
プラスでもマイナスでもない
次なる老子の格言は「足るを知る」。現状の満たされている部分に目を向けろということですね。 「無為」が日々を大切に生きるという意味だとするならば、それにつながる言葉としてしっくりきます。
「これでいいや」という妥協ではなく、「これがいい」という納得を持って生きるということ。今すでにあるものだから簡単なように見えて、かなり難しいと思います。
今は不満足でもこれから頑張っていこうと思えるから未熟な自分に目をつむれるわけで、今後何も変わることなく今の自分で終わってしまうとすれば?妥協という方向に向かわずにはいられませんよね。
「私の年収低すぎ?」なんていう広告が今の仕事に満足していない人の心をぐっとつかみ、世の相場に足りていない部分を煽ってくる競争社会。「現状に満足したら終わり」という人生観が植えつけられています。
そうでなくとも、消費者に何かを買わせることで経済は循環するのだから、生活にこれが足りていない、あれがあればもっと満たされる、と思わせる仕組みがあちこちに仕掛けられているのは当然とも言えます。
一方、「失って初めて気が付くありがたさ」という表現は、今回の番組でも取り上げられていたし、書籍や歌詞などでもよく出会う考え方ですよね。
既に手に入れたもののことは普段忘れているけれど、なくなる可能性が浮上すれば、途端に重要な問題になってきます。
普段、新しく得るものに目を向けがちな私たちが、何かの拍子に失われていくものに視線を移す状況に陥る。結局、そのときの人生の風向き次第でプラスかマイナスかが変わるにせよ、変化していくものには十分すぎるほど敏感な人間。
増えていくものでもなく減っていくものでもなく、現状で推移のないゼロの自分にも目を向けてみよう、というのが老子からの提言なのだと思います。
現状をしっかり受け止め認めた上で自然と向かう方向が幸せだとも言えるかも。「足るを知る」からの「無為」という一連の流れに、急激な社会変革に翻弄された人たちの逃げ場を見出したのでしょう。
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