ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

考察★ハートネットTV「”ひとりぼっち”をみんなで考えようプロジェクト」

 日本だけでなく世界で危惧されている「孤独」。 国としての発展を遂げ、物質的に豊かな生活を実現した現代だからこそ、精神的な満たされなさが際立つように思えます。 とは言え、人間みんな独立した1人の個体ですよね。当たり前とも言える”孤独”を問題視する社会の背景には何があるのでしょうか。
 社会の課題をみんなで話し合って解決する「ブレイクスルー2020→」の第三弾にあたる今回。視聴して考えたことを書いてみます。

5/7(月)20:00~20:30 Eテレ

障害や病のある人、「生きづらさ」を抱えている人、支える家族や共感する人たち、さらには社会を変えたいと願うすべての人たちの、今を知らせる福祉情報番組。


目次

現代社会の孤独

状況的ひとりぼっち、精神的ひとりぼっち

 人はどんなときに自分がひとりぼっちだと感じるのか。街頭では、
・学校で友達を作りたいのに声をかけられない
・病気のため部屋で1人臥せっていて誰にも頼れず寂しい
・暇なときに一緒に過ごせる人がいない
などの声が挙がっていました。ある状況において、共に過ごす人がいないという点で孤独を感じている様子。

 これに対して、同じ”孤独”でも毛色が違うのが、
・協力して仕事をしているようでも、意見が自分だけ食い違って共感する人がいない
・家族と一緒に住んでいても夜に布団に入ると、ふと自分は一人だなと感じた
など、周りに人はいるのに共感する人がいないという意味で、精神的にひとりぼっちを痛感したとの声。

 物理的に人間が自分1人という状態と、周囲の人と心理的に遠いという状態、いずれもひとりぼっちだけど状況は大きく違いますね。

同じ方向を向いて戦える人の不在

 どんな状況で孤独を感じるかは人それぞれで、孤独を一掴みで捉えるのは難しいと感じました。
 一方、いずれのひとりぼっちにも共通しているように思えたのは、「何かを共にする」他人を欲しているということ。共に過ごす、共に働く、共に感じる……などなど。

 技術の進歩で世の中がどんどん合理的になり、”人は人”というスタンスで距離感をわきまえる人が増えました。他人に必要以上に干渉しないようになってきていますよね。でも、そのことが、豊かな生活の中に、ふっと寂しさを呼び起こすことがあるのでは。
 世の中のすれ違う人がみんなそれぞれの方向を向いている中で、自分と同じ方向を向いて目指すことのために協力しあえる人の存在が貴重になっている。このことが現代の「孤独」の根本のような気がします。

 番組でも問題視されていたのが、核家族化が進んだことで、家事が母親(家庭によっては父親)1人に集中し、家庭内で孤立している現状。長時間労働や共働きの増加で、ワンオペ育児に喘ぐ声はあちこちで聞きますよね。夫婦で協力しようと言っていたのにサポートが得られないと、1人でやらされている感が強くなってきます。
 1人暮らしではなく、夫と子で共同世帯を営んでいるのに、実態は孤立している。近所付き合いや親戚も疎遠で頼れる人がいない。これぞ忙しくなった現代ならではの孤独の姿という感じです。

孤独を軽やかに生きるノート

孤独を軽やかに生きるノート

ひとりぼっちはいけないこと?

 「孤独」、「ひとりぼっち」と言うと抜きがたくネガティブなイメージがついてまわります。ひとりぼっちの”ぼっち”って、これっぽっちとかと同じで少ないことを強調していますし。
 でも、他人に無理してあわせるぐらいなら1人の方が気楽だったり、1人で冷静に考える時間を持ちたかったり、孤独を望むときも往々にしてありますよね。孤独そのものが悪いわけでなく、望まないのに孤独になってしまう、孤立が問題だと言えます。

 「人をひとりぼっちにさせるきっかけは誰の足元にも転がっていて、拾っちゃった人が孤立する」
 孤立する人を救うためのプロジェクトに立ちあがった出演者が話していたこの言葉にはすごく納得しました。さらに「自分から望んだ孤独の中にはもう一人の自分がいて、そのもう一人の自分と話ができている間は孤独は問題にならない」ということ。

 自分の中に話し相手となるもう一人の自分、つまり深めたい部分があるかどうかが孤独が問題化するかどうかの基準だとすれば、外からは非常に見えにくい難儀な問題ですね。他人との関係性や社会のあり方によって、望まない孤独に追いやられている人をどう見つけていくのか。社会としての孤独を考えるなら、これがキーポイントとなりそうです。

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

孤立しないためのゲートを1人1人に

 今回のプロジェクトでは、「孤立からの脱却=定点をもつこと」と捉え、”困ったらそこへ行けばいい場所”を作る取り組みが進められているそうです。
 一つの場所で孤独を感じるというのは生きていたらみんなあること、どこか一つでも砦となるコミュニティがあればいい。新しく作るのは時間がかかるので、飲食店や理美容室など、今ある社会資源を活用して、「こういう支援もあるみたいですよ」と控えめに提案するなど、困っている人と支援制度をつなげる方策を考えているとのこと。

 孤独そのものを撲滅する考えではなく、1人1人が孤独も含めた自分というものを認めてもらえる場所にアクセスできるようにするというのは、無理がなくてとてもいいなと思いました。 例えて言うなら、学校でトラブルがあったからと言って親が学校に乗り込むのではなく、家で寄り添ってあげるような、アプローチですね。

生身の人間としてつながれるか

 周囲に人がたくさんいるはずの社会で生きているのに、誰にも助けを求められず孤立する人たち。
 乳幼児を抱えて親子2人で途方に暮れている声も紹介されていました。 以前には引きこもりの子どもと、老齢となった親が、住宅街の一室で孤立死した実態が取り上げられていて、このブログでも扱いました。

inusarukizi.hatenablog.com

 いずれも、「母親になったからには子どもを立派に育て上げるのが当然」「社会に出て職に就き働いてこそ一人前」という、1人1人に課せられた社会的な責任の重さが根底にあるように思えます。
 さらに、この重い観念は他人から浴びせられるだけでなく、当人の中でも強固で堅牢なものと化し、自らを責めたりありのままの自分を人前にさらけ出すのを恥だと感じたりするようにさせていきます。

 孤立というとかなり追い詰められた特殊な状況に思えて、結構そこかしこにあるのではないかとも思います。
 ただ、世界と比べても価値観が均質化されがちな日本、人目や体裁を限界を超えても過剰に気にする気質が、社会の風通しを悪くしていきます。SNSの普及によってますます拍車がかかり、世間一般のスタンダードを前提に、充実した自己を演出する動きが増大しました。
 SNS映えの裏で無意識に、映えない現実を自分でも見て見ぬ振りしていき、気付けば破綻をきたしているなんてことになりかねません。キラキラした自分は見せられても深刻な問題は誰にも見せられず1人で抱え込んでしまう。つながっているつもりで孤独を深めてしまっているように思えてなりません。

孤立の社会学: 無縁社会の処方箋

孤立の社会学: 無縁社会の処方箋



---広告---