「障害を題材にしたお笑いで笑えないのは、逆に差別なのでは」
世に出て間もない”ほぼ全盲芸人”を巡って、そんな指摘を耳にしました。
過剰な反応が、条件反射で形式的に配慮するだけの社会にとどめているのでは。
そう考えるきっかけになったEテレの番組について、考察してみます。
4/23(月)20:00~20:30 Eテレ
障害や病のある人、「生きづらさ」を抱えている人、支える家族や共感する人たち、さらには社会を変えたいと願うすべての人たちの、今を知らせる福祉情報番組。
目次
障害にまつわる、ざっくばらんな”B面談義”
今日のハートネットTVはいつもと毛色が異なり、
全盲、ゲイ、トランスジェンダーの人たちが集まって
日常で感じるあれこれを赤裸々に話し合う、座談会のような回でしたね。
その名も「B面談義」。ハートネットTVで不定期に行っている企画とのことですが、
ミッツ・ケールちゃんは今回が初めての視聴でした。
「ほぼ全盲」は必要条件であって十分条件ではない
先の「R-1グランプリ」で優勝した、ほぼ全盲の漫談家がスタジオに登場。 スタートから気負うことなく自然な振る舞いでしたが、 「視覚障害者代表としてテレビに出ているわけではない」との一言に 彼の芸人としてのスタンスが込められているように思いました。
別の視覚障害者に「こんな全盲ネタやってほしい」と言われて「ご自分でどうぞ」と 返していたのが印象的でした。”障害を持つ人たちの代弁者”的な正義を掲げているわけじゃないんだよというメッセージのように感じました。
生活エピソードに必須な属性
視覚障害者だからというよりは、自分が生活する上で経験したエピソードをネタにしていて、そこに属性として”ほぼ全盲”という要素が存在するような感じでしょうか。
「大阪生まれ」とか「眉毛が濃い」とかと似たようなもので、1つの特徴ではあるものの、
それが全てじゃない。もちろん特徴的な部分ではあるので「ほぼ全盲の芸人」と修飾語がつくのはおかしな話じゃないし、お笑い番組以外で今回のように視覚障害の特集に呼ばれるのも自然なこと。
例を挙げるとすれば、眼鏡がトレードマークのフルート奏者が眼鏡の生産地・鯖江市のイメージキャラクターに起用されるのと似ている気がします。あくまで本分は楽器演奏ですよね。
ただ彼の場合、持ちネタが自分の生活から抜粋した「全盲あるある」であることが、そのことを分かりにくくしていると感じました。彼にとっては日常エピソードでも、健常者からは障害ありきの芸風だなと思われがちなのではないかと。その根底には、障害者と健常者をきっぱり二分割してしまう現代の(特に健常者が陥りがちな)捉え方があるように思えます。
帰納的に見てしまう
ミッツ・ケールちゃんは学生時代、同じ場で学んでいた留学生が「自分がしっかり努力しなければ、自国の人間みんなが駄目な奴だと思われる」と漏らしていたことが今でも印象に残っています。そこらじゅうに同じ国出身の人がいれば1人の個性として見てもらえるけれど、母数が少ない以上1人の振る舞いは重大。マイノリティの責任のようなものが伝わってきました。
同様に、「障害者」という存在は健常者にとってまだまだ”珍しい”存在を脱していないと思います。全体数としては決して珍しくないですが普段の生活で交わることが少ない。学級など分離すべきという風潮が強まっているとの指摘もありましたね。実感として”珍しい存在”でとどまっているのが現状。
1人を見て「障害者とは一律こういうものだ」と帰納的に結論付けてしまう動作が、ますます溝を深くして縁遠くさせているように思えます。
ましてや、お笑いの舞台に立つ障害者なんて前代未聞で、「あの芸人のアイデンティティは”全盲であること”に違いない」と勝手に決めつけてしまいがちなのではないでしょうか。
経験から物事を類推するのは人間の能力の1つで、私たちは目の前のデータを頼りに物事を理解します。でも得られたデータ数が少なく正確な分析ができたとは言えないのに、分かった気になっていないか。今回の座談会は、そう問い直すきっかけになりました。
LGBとTごちゃまぜ問題
もっと言えば、ミッツ・ケールちゃんは、「LGBT」という単語でまとめてしまうことにも疑問を感じます。同性が好きといった性的嗜好(LGB)と、自分をどう捉えるかという性自認(T)は、本来まったく異なる概念ですよね。
今回の番組でも話題に上がっていましたが、ゲイだからといって中身が女性的とは限りません。これってわかりやすいステレオタイプで、そもそも「女性的な心の人が、男性的な相手を求めるのが当たり前」というマジョリティの価値観が元になっていることを、ぜひここで指摘したいと思います。
「女らしい仕草を演じた方が、世の中がゲイを受け入れてくれる」という現状の裏には、トランスジェンダーを当てはめることによる、異性愛へのすり替えがあります。「LGBT」と一緒くたに扱うことで、同性愛への理解が進まないのではないかと心配になります。
「笑っていいのかわからない」
話は戻りますが、「ほぼ全盲芸人」のお笑いに対して、「笑っていいのかわからない」という戸惑いの声が紹介されていました。
忘れてはならないのは、彼が「おいしい」と感じる笑い声を、つらいと感じる人がいる可能性です。
こういった番組を見るたびに思うことは、テレビなど人前に出てくる障害者はパワーのある人たちだから、ここで見た状況を誰彼かまわず当てはめてはいけないなということ。
障害者みんなが割り切っているわけでなく、特に後天的に障害を持った人の中には
受け入れられていないタイミングの人もいると思います。
障害に限らないことですが、「声が高い」とか「眉毛が濃い」とか「名前が変わっている」とか同じような特徴でも、人によっては長所、人によっては触れられたくないコンプレックスになりえます。結局当人がどう捉えているか次第なんですよね。
となれば、人間関係を育む上での当然の気遣いとして、相手がそのことをどう捉えているかを確認するという作業が過程として入ります。
最近の個性を尊重し合う社会の流れで、このワンテンポを置くという習慣を心がける人は増えてきています。前項で述べた「帰納的に生み出された障害者の固定概念」や「LGBTごちゃまぜ問題」からの脱出を図るためにも大切な習慣だとミッツ・ケールちゃんは感じています。
それだけに、お笑いとして舞台に立った瞬間に「気を遣わず笑ってもいい」と常識が変わってしまうことについていけない観客がいるのは至極当然のこと。それを無視して「むしろ笑わないと失礼」としてしまうとすれば、演者側のエゴだと思います。
スピード感のあるお笑いに、相手のことを思いやるワンテンポがはさまると、間髪入れず笑うって難しいです。そもそも笑うも笑わないも受け手の自由だと思うのです。
ほぼ全盲芸人の彼自身、「笑われないとしたら実力不足。笑ってもらえたらお笑いとして受け入れてもらえたと思うだけ」と話していました。「笑えないということは無意識に差別している」という発想は健常者の過剰な反応でしょう。
「差別の時代を経て、障害者をやたら褒めないといけない価値観が広がっている」という指摘がありましたが、同じような危うさを感じます。
自省するならまだしも、過剰な基準で他人をジャッジすることで過敏で閉塞的な社会へ向かわないようにしたいものです。