ミッツケールちゃんの「みつける よのなか」blog

世の中のいろんなことを考察して深めたいミッツケールちゃんのブログ。本やテレビ、ニュースについて、あちこち寄り道しつつ綴ります。

グローバル化という暴力の源泉は私たちの中に―書評★熱源(川越宗一)


第162回直木賞を受賞した大作「熱源」が、来月発表予定の本屋大賞にもノミネートされている。

文明」の名の下に故郷を奪われた二人の主人公の、アイデンティティを巡る戦いを追った歴史大作だ。

【第162回 直木賞受賞作】熱源

【第162回 直木賞受賞作】熱源

文明の波に立ち向かう二人の主人公

一人目の主人公は、樺太(サハリン)生まれのアイヌヤヨマネクフ
北海道開拓に伴って本土への集団移住を強いられるも、アイヌとしての矜持を失わず、盟友や亡き妻との思い出の地である樺太に戻ることを志す。

二人目の主人公ブロニスワフ・ピウスツキは、リトアニアで生まれ、ポーランド語を母語とする。
強硬なロシアの同化政策によって母語を禁止され、無実の罪で苦役囚として樺太に送られる。

二人の人生が交錯する傍らでは、寒さ厳しい北国・樺太の風土やアイヌ民族の文化が、時代とともに形を変えられていく。

歴史的に重要な土地である樺太を舞台に据えて史実を織り交ぜながらも、エンターテイメント性は抜群。
普段歴史には興味のない人も波瀾万丈な物語として楽しめる作品になっている。

実在の人物をモデルにした歴史小説

日本人にされそうになったアイヌと、ロシア人にされそうになったポーランド
彼らの壮大な物語は、実在の人物の記録を軸として描き出されている。

ヤヨマネクフは、金田一京助が「あいぬ物語」としてまとめた山辺安之助がモデル。

ブロニスワフについても最近、生涯をまとめた評伝が出版されている。

激動の世の中に立ち向かう主人公二人以外にも、実在の人物がたくさん登場する。
後半に出てくる早逝のアイヌ女性、知里幸恵さんも実在の人物。


強者であることを意識しない私たち

華々しい文明発展経済成長
本作は、その陰の弱者の視点から綴られている。

読み進めていると彼らの立たされた場所の危うさを思い知り、自然と彼らに感情移入してしまう。
弱肉強食の世界に対して憤りさえ感じる。

しかし、現代に生きる和人である私たちも、犠牲のもとに進歩してきた世界の先に生きているのだ。

本作を読みはじめると多くの人が、アイヌの名前が覚えづらいと感じるだろう。
主人公のヤヨマネクフですら、名前がすっと頭に入ってこない。

しかし序盤の、彼が通わされることになった日本語教育を行う学校での一場面。 ヤヨマネクフという名前は、日本語の漢字をあてて「八夜招」と表記されることになる。

読み手である私は、この三文字の漢字を目にした瞬間から、覚えづらかった「ヤヨマネクフ」という名前が、脳内で漢字変換されることで容易く入ってくるようになった。
そんな自分に思わず愕然とする。

なぜならそこにあるのは、使い慣れた漢字で表記すれば便利だという、日本語話者だけの都合だから。
そしてそれは、本作が読者にその是非を絶えず投げかけてきている、「高度な文明」がそれ以外を従わせる暴力端緒そのものだから。

なんてひどい!と思わず憤慨してしまうような悲劇の裏には、悪気なく利便性を求める私たちの日常が存在する。

作中でアイヌとしては意味のない漢字を無理矢理あてられて「八夜招」と表記されるのも、和人の学校側が日本語にすれば読みやすくて扱いやすいと考えたからに違いない。

つまり、隣人の文化を軽んずることになるきっかけは、私たちにも秘められているのだ。


グローバル化の行く末は

世界全体の効率を考えれば、言語も文化もすべて、皆が一つの標準に沿う方が無駄がない。

無駄がなくなるということは、世界の片隅で貧しさにあえいでいた誰かが生き延びたり、誰かが豊かな生活を得たりするかもしれない。

それでもその陰で、自分らしさを当たり前のように奪われる少数派の人たちが確かに存在する。
無理矢理に一つの色に染めてしまうということは、戦争の本質でもある。

グローバル化と聞けば先進的で、良いイメージがついてまわる。
ただその実態は世界の「標準化」なのだ。

世界中が進歩の方に向かうことは人間の向上心の結果である。
だが、その過程で個性が奪われ、世界中のどの街にも同じようなビルが並び、同じような服の人が歩くようになった現代の姿には危うさを覚える。

【第162回 直木賞受賞作】熱源

【第162回 直木賞受賞作】熱源


関連作品

「熱源」著者・川越宗一さんのデビュー作も、歴史エンターテイメントの佳作↓

天地に燦たり

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フィクションからアイヌ文化を知るなら、漫画「ゴールデンカムイ」監修者によるこちらがわかりやすいのでおすすめ↓


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自然界の摂理から見る「虐待する親」の正体――書評★生き物の死にざま

 目を塞ぎたくなるような児童虐待が後を絶たない。

 ひとつの虐待がニュースに上がり、その記憶が薄れないうちに、またひとつ別の虐待が起きる。
 親からの暴力によって命が奪われた子どもたち重い傷を負った子どもたち。その顛末は、悲惨と言うよりほかない。

 中でも、昨年3月に起き、現在も公判中の東京・目黒区での虐待死はその惨たらしさから、いまだに世間を騒がせている。
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20191003/1000037232.htmlwww3.nhk.or.jp

褒められる娘・けなされる父

 今日の裁判では、虐待死した結愛ちゃん(当時5歳)の父親が虐待に至った心理を述べた。

 その証言の中で印象的だったのが、
「結愛は褒められるが、自分はけなされるだけだ」 という言葉。

 その裏には、自分が認められない苛立ちと、娘への感情転嫁が見え隠れする。
これまでも裁判の動向を窺ってきたが、ようやく虐待する側の事情が見えてきたように思う。

 罪のない子どもに対して父親がやったことは、到底許しがたい。
しかし、その悪の根源は、父親自身の人生の満たされなさやストレスにあるようだ。

 大人の満たされなさが、「しつけ」という大義名分で、たまたまそこにいる子どもにぶつけられるという構図。
 これは、世に蔓延する虐待の多くに共通するものなのではないだろうか。

生き物の死にざま

 ここで、人間社会の親子虐待を考える上で、ヒト以外の生き物の子育てに注目してみよう。
農学博士による一冊のエッセイを紹介したい。

生き物の死にざま

生き物の死にざま

 どんな生き物も、厳しい自然の下で必死に生きている。そして、生きる先には死が待ち受ける。
 彼らがどのように生きてどのように死んでいくのか。自然の儚さを滲ませながら、多様な生き物の命のかたちが描かれている。

 中でもたびたび焦点が当たるのが、生き物たちの親子のかたちだ。
どんな生き物でも繁殖し、次の世代を残して死んでいく。親と子の関係性というのは、ヒトだけでなく地球上に不変なものなのだ。

 作中で著者は、「自然界で子育てという行為は、子どもを守る強さを持つ生き物だけに許された特権」だと述べている。
 例えば昆虫の多くは自然界で弱い存在であり、子どもを守ろうとしても親ごと食べられてしまう。そのため卵を産みっぱなしにせざるを得ない。

 これを人間社会に置き換えると、どうなるだろう。

 子どもに暴力を振るう親、ネグレクトする親や養育費を渡さない親など社会で問題になっている大人たち――。彼らは、食物連鎖の上流にいるヒトでありながら子どもを守る強さを持たない個体といえるのではないか。

 結果的な悪ばかりが目につくが、自分だけで精一杯な人間界の弱い存在。それが虐待親毒親正体なのかもしれない。

毒親サバイバル

毒親サバイバル

たかが八つ当たり、されど八つ当たり

 ここまで考えてきて提示したいのは、虐待の根本が身勝手な「八つ当たり」だということだ。
 日常生活で満たされない思い仕事や人間関係のストレスを、近くにいる無関係な人にぶつける「八つ当たり」。

 相手が大人であっても八つ当たりされるというのは極めて厄介なことだ。
その矛先が、子どもに向いたとしたら? 生死に関わることになる。

 問題は、その虐待=八つ当たり に勤しむ大人とは、前述したとおり人間界の弱い存在だということである。

 いくら自分が満たされないからといって、何の罪もない子どもにその捌け口を見出すことは許されない。
 しかし限界まで行ってしまった人間に、言葉で言って聞かせたところで、即座にあたたかい親心を取り戻させるのはそう簡単なことではない。

社会で育てる生きざま

 結局、ストレスを自己処理できない大人からは、一刻も早く子どもを引き離す
虐待を防ぐためにできることは、それぐらいかもしれない。

 自然界で生きる昆虫や他の生き物と違って、ヒトの子どもは養育者なしでは生きていくのは困難だ。
このことが、虐待を取り巻く事情をより複雑にしている。

 虐待しつつもどこかで親としての責任を捨てきれず、子どもを手放せない。
でもそれでは何も変わらずストレスは消えないままで、親としての重圧からまた虐待に走る。

 虐待は確かに悪だが、それに携わる親たちにも、複雑な思考が絡んでいる。

 一方、育てられない事情の親の肩代わりをする社会を形成できるという点でも、私たちは他の生き物と大きく異なる。

 子どもを育てる余裕理性をなくした親が、子どもを手放せるような仕組みを作ること。
それこそが、私たち人間に期待される生きざまなのではないだろうか。



あの人は、本当に私と同じ人間なのか?―書評★地球星人(村田沙耶香)

 地球星人――出版されて1年経つ今も世間を揺るがせる小説のタイトルだ。
このタイトルから、どんな話を想像するだろうか。

 ”国どうしで揉めたりしているけれど、みんな一つ星の下で生きる運命共同体なんだよ”
そんなメッセージが込められたあたたかい話? 一見そんなふうに感じるかもしれない。

 しかし、私たちが想定する世界観とは一線を画す、狂気に満ちた世界がそこにはある。
何を隠そう、この小説の作者は芥川賞受賞作『コンビニ人間』で知られる村田沙耶香なのだから。

地球星人

地球星人

魔法少女からポハピピンポボピア星人へ

 物語は、主人公・奈月の少女時代からはじまる。

 社会で当たり前とされていることにどこか違和感を感じつつも、自分のことを魔法少女だと思い込むことで、奈月は日々をやり過ごす。
 従弟の少年と「何があっても生き延びること。」を合言葉に心通い合わせるが、世の常識に阻まれて仲を引き裂かれてしまう。

 成長するうちに魔法少女を脱した奈月。しかしその目に、世界は「人間工場」として映る。

 この地球では、みな恋愛をしてセックスをするべきで、その末に人間が生産されることが何よりも尊いことである。
 その流れに沿えない人間は、周りから下に見られ、更生するように促される。

 「地球星人が繁殖するためにこの仕組みを作りあげたのだろう」と考える奈月は、同時にこうも思う。「私は地球星人じゃない。ポハピピンポボピア星人だ」と。
 でもそれなら、どうやって生き延びればいいのだろう。

「役割」に救われる人、追い詰められる人

 人間工場と化した地球で求められる、子どもを産み育て人の役に立つよう働くこと。

 そのような「役割」に追い詰められていく奈月と対照的に描かれるのが、彼女の実のだ。

 奈月と同じく幼いころは生きづらさを抱えていた姉は、成長して社会に出ることで、「役割」さえこなせば一人前の人間として見てもらえるということに気付く。

 奈月を苦しめた人間工場の「役割」に、姉は救われたのだ。

 しかし、そうして人間工場の一員として組み込まれた姉は、やがて奈月に「普通」を求めるへと化していく。

 社会に馴染めない少数派の人を追い詰める、多数派がいかにして出来上がるのか。
――そのような世の成り立ちが、奈月の姉という一人の人物を通して、見えてくるようだ。

最大多数からあぶれた人たち

 あまたの人間が構成するこの世界は、どうしても、その中の多数派が社会のルールを作ることになりがちだ。
 最大多数の最大幸福を追求し発達した社会で、大多数の人は常識を受け入れる。

 しかし、そうして形成された「常識」や「多数派」はやがて、その価値観を受け入れられない異端な他者を裁くようになっていく。

 本作は、そのような「世界の道具になれない」人たちの視点で話が広がっていく。
 奈月は同じような思いを抱えている男性と、形の上では夫婦となり、少女期に引き裂かれた従弟とも再会を果たす。

 3人は、依然として地球の暗黙の了解に身を置けない、ポハポポンピア星から来た”異星人”である。

 彼らから噴出する「この世界で自分の命は自分のものじゃない」「何で僕が、僕であることを許されなければいけないんだ」という叫びが、この作品の象徴的なものとなっている。

常識を抜け出すために意識する常識

 物語は徐々に狂気を帯び始め、衝撃のラストへと向かう。
彼らは地球星人と決別する道を選び、自分たちが心から納得できる生き方を模索していくのだ。

 私たちの常識を覆すような描写、度肝を抜かれる展開は、読み手を大いに惑わせる。

 一方、開き直って社会外で生きる彼らの行動は、どこか人間の価値観に起因するものから脱しきれていない。
 皮肉なことに、常識から抜け出すためには、常識を基準にせざるを得ないのだ。
かえって人間らしい発想に収まっている3人の模索からは、人間としての限界も感じさせる。

 社会に不満を持っていようとも、私たちは所詮この社会の一員である。この世に生を受けた瞬間から縛られているのだ。
 自分の人生の根源にあるものがひも解かれていくような感覚に陥った。

倫理観が人と人を分断する

 作中で彼らも指摘していたが、考えてみれば、人間社会は矛盾であふれている。

-少子化が懸念され結婚・出産することが大義なのに、不倫は許されない。
-大切な人のが奪われたからといって、復讐という名目でまた別の人のを奪う。

 合理的とは言い難い場面は、そこかしこで見られる。
その根底にあるのは「倫理」という理屈では割り切れない精神世界だ。

 そして、何が良くて何が悪いかという精神論は、かなりの個人差が見られるものである。

 ヒト以外の生物にはないこの”余白”が、価値観の違いを作り、多数派と少数派を分け、異星人を生むのかもしれない。

生きづらい人たち

 本作の著者・村田沙耶香はデビュー来、日常に潜む「普通とは」「常識とは」に、独特の世界観をもって食い込んできた。

 芥川賞を受賞した『コンビニ人間』では、「普通」が分からない女性が、勤務マニュアルが充実したコンビニで働くことによって、世の「普通」に身を沿わしていく。
 著者自身が、長年コンビニ店員だったこともあり、描写のリアリティや生々しさが秀逸である。

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 『地球星人』でも序盤に馴染めない少女の日常が描かれているが、子どもの生きづらさ救いという点では『タダイマトビラ』もおすすめ。
 子どもを愛せない母の下で育った少女が、家族欲を求めた先は……。

タダイマトビラ

タダイマトビラ

 そして個人的に村田作品の中で最も推したいのが、『殺人出産』だ。
産み人」となり10人産めば1人殺してもいい世界で、登場人物たちが抱くへの思い
自分が世の中の「正しいこと」に知らず知らず取り込まれていることに気付かされ、足元から揺るがされているかのような感覚へと突き落とされる。

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)



加害者ケアの必要性―悪への非難は、新たな事件として社会に跳ね返る

 悪を責め立てる世の中は、果たして良い方向へ進むのだろうか。

 約4か月前に散歩中の園児16人を巻き込む死傷事故を起こした容疑者の女性が、公判中である今、別件で逮捕された。
 出会い系サイトで知り合った男性に連絡を強要したり脅したりしたストーカーの疑いがかかっているのだという。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20190930-OYT1T50217/www.yomiuri.co.jp

 この報道を受けて、ネット上では多くの反応が飛び交っている。

「公判中なのに、出会い系だなんて全く反省の色が見られない」
「事故を起こすような人は、やはり人間性がおかしい」

 しかし、この話を「悪い奴はやはり悪かった」という単純な話で終わらせていいのだろうか。

人を死なせた重み

 そもそもの発端である死傷事故は、右折時の判断ミスで起きた車同士の衝突から、偶然近くの歩道を散歩していた保育園児の列に突っ込んだというもの。
 不運なことに何人もの子どもが亡くなったり傷を負ったりした。

しかし、
-この事故が容疑者の故意によるものではなく、過失であったこと。
-また現在、事故の公判中であり、容疑者は自分の起こした事故に向き合っている最中であること。

これらを踏まえると、今回のストーカー疑いの件は、事実であるなら確かに犯罪ではあるものの、背後に何がしかの事情があったのではないかと推察される。

 園児死傷事故が明るみになった後、容疑者の女性は世間から激しいバッシングを受けることになった。
 その一方で容疑者自身も、起こした事故の重大性に衝撃を受け、自分を大いに責めたのではないだろうか。

 故意でないにせよ、いや故意ではないからこそ、「人を死なせてしまった」という事実は大変に重いものだろう。

 その罪悪感から精神的に不安定になって、たまたま知り合った男性に救いを求めたのだとしたら。
しかし、その男性には受け止める用意がなかったとしたら。
連絡を断とうとした男性にすがりついてしまった末に、すれ違いで事件化したのだとしたら。

悪を責め立てるだけでは何も解決しない

 「人を死なせたのだから、苦しむのは自業自得」という正義の声は恐ろしい。
逮捕に至るまでに何があったのか、想像する余地を完全に奪ってしまうからだ。

 もちろん、意見をネットに寄せる人たちもこのブログを書いている私も、この容疑者の人となりを知らない。本当に根っからの悪者である可能性も否定はできない。
 しかし、上で書いたような経緯が完全に誤っているとも言い難いのではないか。

 追い詰められた容疑者の女性が救いを求める先が、出会い系ではなく専門機関なら、おそらく事件にはならなかった。
 そこを女性の非だと取ることもできる。でもそれすら判断できないほど常軌を逸していたかもしれないし、「加害者である自分が精神的な支援を受けるなんて許されない」という思いもあったのかもしれない。

 支援を必要としている人ほど、誰にどのように助けを求めたらよいのか正常な判断を下しにくいということはあるはずだ。
 そんなときこそ福祉の側から迎えに行って手を差し伸べるというシステムが求められるのではないだろうか。

加害者へのケアは社会のため

 悪者を悪いと断罪してしまうことは簡単だし、安全地帯から誰かを非難すれば一時は憂さが晴れるかもしれない。

 しかし、罪を犯した人を刑罰以上に追い詰めても、社会として得はない
いたずらに二次被害を生みだし悲劇を増産することにさえなる。

 事件が起きたとき真っ先に助けが必要なのは、当然、被害者やその家族たちである。
 しかし、それとセットで罪を犯してしまった人にも精神的ケアを施すことを忘れてはならない。

 加害者になってしまった以上、罪を罪として償うのは当然だが、いつか更生し社会復帰するための助けが必要不可欠だ。

 それは、加害者自身のためだけでなく、長い目で見れば安全な社会づくりのためにも役立つ

犯罪や非行の裏にあるもの

 犯罪と聞けば、一刀両断に「悪」として切り捨ててしまいがちだ。
しかし、どうしようもない罪を犯した人にでも、何かの事情があることは多い。

 そんな世界を知るために、医療少年院で勤務した経験を持つ精神科医の書いたこちらの本をおすすめしたい。

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

 犯罪や非行のニュースを耳にすると、一般人である我々はつい自分に当てはめて、「自分だったらそんなことしないのに」「なぜそんなことを」という発想に陥る。
 犯罪者が自分と同じ人間、同じ社会通念や価値観に基づいていることを疑わないから。

 そんな無意識のカテゴライズを打ち砕くのが、本書の提示する非行と知的障害の相関だ。

 最低限の教育からこぼれ落ち、悪いことを悪いとも思えない反省以前の非行少年に対し、
悪は許せない⇒罰を受けるべきと一蹴しても何も解決しないのだと思い知らされる。

 切り捨てられた人たちが、次に社会の関心を買うのは犯罪者となったときなのだ。